私たちの体の中では、数えきれないほどのタンパク質が、それぞれの役割をこなしている。食べ物を消化し、酸素を運び、病気から体を守る。タンパク質は、生命を支える「小さな機械」なのだ。
ところが、この小さな機械には、長年科学者を悩ませてきた難問があった。タンパク質の「形」があまりに複雑で、予測できなかったのだ。形が分からなければ、どう働くのかも、どんな薬が効くのかも分からない。この50年来の壁を打ち破ったのが、AIだった。2024年には、その功績にノーベル化学賞まで贈られている。
シルミータンパク質の形を当てるだけでノーベル賞!? そんなにすごいことなの?
それがね、50年間だれも解けなかった難問なんだ。なぜそんなに大事なのか、順に見ていこう。
タンパク質の「形」は、なぜそんなに重要なのか


タンパク質は、アミノ酸という小さな部品が、数十個から数千個もつながってできている。このつながった鎖が、複雑に折りたたまれて、独特の立体的な形をつくる。そして、この「形」こそが、タンパク質の働きを決めているのだ。
たとえば、血糖値を調整するインスリンは51個のアミノ酸から、肺から全身へ酸素を運ぶヘモグロビンは574個のアミノ酸からできている。同じ部品でも、折りたたまれ方が変われば、まったく違う働きをしてしまう。正しい形になれば正常に機能するが、間違った形になると、うまく働かないどころか、病気の引き金になることさえある。
この「配列から形へ」の変換は、折り紙にたとえると分かりやすい。一枚の紙を折る手順は、一列に並んだ文字のような設計図で表せる。だが、その文字列を見ただけで、完成した折り紙の立体的な姿を思い描くのは、とても難しい。タンパク質も同じで、アミノ酸の並び順は分かっても、それがどんな形に折りたたまるかを予測するのは、途方もなく難しい問題だった。
だからこそ、形を知ることには大きな意味がある。形が分かれば、そのタンパク質がどう働くのかが理解でき、異常が起きたときに何が壊れているのかも見えてくる。病気の治療薬を設計する第一歩も、まさにこの「形を知ること」から始まるのである。
薬づくりを、鍵と鍵穴にたとえてみよう。多くの薬は、体の中の特定のタンパク質の「くぼみ」に、ぴったりはまり込むことで効果を発揮する。つまりタンパク質が鍵穴で、薬が鍵だ。鍵穴の形が分からなければ、それに合う鍵を削り出すことはできない。だからこそ、狙ったタンパク質の立体構造を正確に知ることが、有効な薬を生み出すための、欠かせない土台になるのである。
50年間だれも解けなかった難問


タンパク質の形を知る、という課題は、なぜそれほど難しかったのか。従来、その形を調べるには、実際に実験で「見る」しかなかった。
使われてきたのは、X線結晶構造解析や、クライオ電子顕微鏡と呼ばれる、高価で大がかりな装置だ。これらを使えば、たしかにタンパク質の形を精密に調べられる。だが、たった一つのタンパク質の構造を明らかにするのに、数か月から、時には数年もの時間がかかることが珍しくなかった。しかも、どんなタンパク質でも調べられるわけではなく、この方法が通用しないものも多かった。
それはまるで、一人の名探偵が、膨大な数の事件を一つずつ、時間をかけて解いていくようなものだった。解決できる事件の数には、どうしても限りがある。世の中には無数のタンパク質があるのに、そのペースでは、全体像が見えるまで気の遠くなるような年月がかかってしまう。
この「アミノ酸の並びから立体構造を予測する」という課題は、生物学における50年来の未解決問題として知られていた。多くの科学者が挑んでは、満足のいく精度に届かずにきた。その壁が、2020年、ついに崩れることになる。
なぜ、これほど難しかったのか。アミノ酸の鎖が折りたたまれる可能性は、天文学的な数にのぼる。理屈のうえで、あらゆる折り方を一つずつ試していたら、宇宙の年齢よりも長い時間がかかってしまう、とさえ言われる。それでも実際のタンパク質は、一瞬で正しい形に落ち着く。この「膨大な選択肢の中から、なぜ一つの正解に行き着くのか」という謎が、問題をいっそう手ごわいものにしていた。
AlphaFold2の衝撃


2020年、イギリスのAI企業グーグル・ディープマインドが開発した「アルファフォールド2」というシステムが、この分野に激震をもたらした。
その舞台となったのが、2年に一度開かれる、構造予測の腕を競う国際的なコンテストだ。ここでアルファフォールド2は、他を圧倒する成績をたたき出した。予測の正確さを示す指標で90%を超えるという、実験で調べた構造にほぼ匹敵する精度を達成したのである。専門家たちは、この問題が「事実上、解けた」と受け止めた。
このAIの驚くべき点は、その速さと手軽さにもあった。アミノ酸の並び順を入力するだけで、わずか数分で、そのタンパク質の立体構造を予測してみせる。かつて数か月から数年を要した作業が、机の上のコンピューターで、あっという間に片づくようになったのだ。この成果は、2021年に科学誌『ネイチャー』に発表された。
一人の名探偵が一つずつ事件を解いていた時代から、AIという捜査本部が、無数の事件を同時並行で解いていく時代へ。アルファフォールド2の登場は、そんな地殻変動の始まりだった。
ではこのAIは、どうやって形を言い当てるのか。カギは、これまでに実験で解き明かされてきた、膨大な数のタンパク質構造のデータにある。アルファフォールド2は、その「答え合わせ済み」のデータから、アミノ酸の並びと立体構造のあいだにひそむ法則を学び取った。いわば、無数の棋譜を学んで一手を読む棋士のように、配列を見た瞬間に、もっともありそうな折りたたみ方を導き出すのだ。人が理屈で解こうとして届かなかった問題に、AIは「大量の実例から学ぶ」という別の道すじで到達した。
まだ半分が謎だった、人体のタンパク質


アルファフォールド2がもたらした変化は、速さだけではない。人類が把握できるタンパク質の「地図」を、一気に塗り広げたのだ。
アルファフォールドが登場する前、人間の体にあるタンパク質のうち、立体構造がある程度分かっていたのは、およそ半分にとどまっていた。残りの半分は、いわば「地図のない大陸」だった。旧来「7割がブラックボックス」といった言われ方もされたが、実際の数字としては、判明していたのは半分ほど、というのがより正確だ。
ところが、アルファフォールドの導入後、このカバー率は4分の3にまで跳ね上がった。構造がまったく分からないタンパク質は、劇的に減ったのである。未踏の大陸に、一気に精密な地図が描き込まれたようなものだ。
さらにディープマインドは、AIが予測した構造を、誰でも無料で使えるデータベースとして公開した。その数は、2億件を超える。世界中の研究者が、これまで想像もできなかった規模で、タンパク質の構造を手元で参照できるようになった。この開かれた姿勢こそ、アルファフォールドが科学全体を前に進めた、大きな理由の一つである。
AlphaFold3で、何が変わったのか


物語は、アルファフォールド2で終わらない。2024年、ディープマインドは後継となる「アルファフォールド3」を発表し、予測できる対象を大きく広げた。
アルファフォールド2が予測できたのは、基本的にタンパク質「単体」の形だった。だが実際の体の中では、タンパク質は単独で働くわけではない。DNAやRNA、そして薬になる小さな分子など、さまざまな相手と結びついて機能する。アルファフォールド3は、こうしたタンパク質と他の分子が組み合わさった「複合体」の構造まで、予測できるようになったのだ。
これは、創薬にとって大きな意味を持つ。薬とは多くの場合、狙ったタンパク質に、ぴったりはまる小さな分子だ。タンパク質と薬候補がどう結びつくかを予測できれば、薬の設計は格段にやりやすくなる。鍵穴の形だけでなく、そこに鍵がはまる様子まで、あらかじめ画面上で確かめられるようなものだ。
なお、正直に付け加えておくと、アルファフォールド3については、発表後に一部の内容を訂正する報告も出されている。最先端の技術であっても、完璧ではなく、検証と修正を重ねながら進んでいく。それもまた、科学の正直な姿である。
それでも、単体のタンパク質から、複数の分子が絡み合う複合体へと予測の対象が広がったことの意味は大きい。生命の営みは、分子どうしの出会いと結びつきによって成り立っている。その「組み合わさった姿」を画面上で描けるようになったことは、細胞の中で実際に起きている出来事を、より生きた形で理解する助けになる。予測の解像度が、部品単位から、部品が組み上がった機械全体へと近づいたのだ。
2024年ノーベル化学賞、AIが科学賞を取った日


こうした一連の成果は、ついに科学の最高の栄誉によって認められることになる。2024年のノーベル化学賞だ。
この年の化学賞は、二つの功績に贈られた。賞の半分は、コンピューターを使ってまったく新しいタンパク質を一から設計する研究を切り開いた、アメリカ・ワシントン大学のデビッド・ベイカー氏に。もう半分は、アルファフォールドによってタンパク質の構造予測を成し遂げた、ディープマインドのデミス・ハサビス氏とジョン・ジャンパー氏に授与された。
ここで押さえておきたいのは、二つの功績の向きの違いだ。ベイカー氏の仕事は「設計」、つまり自然界にない新しいタンパク質をゼロから作り出すこと。一方ハサビス氏らの仕事は「予測」、すでにあるタンパク質の形を言い当てることだ。作る側と、読み解く側。この両輪がそろったことが、タンパク質研究を新しい時代へと押し上げた。
AIによる成果が、物理学賞に続いて化学賞でも中心に据えられたことは、大きな驚きをもって受け止められた。この技術がいかに科学の土台を揺るがしたか、その証しでもある。発表の時点で、アルファフォールドはすでに世界190か国、200万人を超える人々に使われていたという。
折りたたみのミスが招く、病気


タンパク質の「形」の話は、私たちの健康にも、じかに関わってくる。折りたたみがうまくいかないと、深刻な病気につながることがあるからだ。
たとえば、アルツハイマー病では、アミロイドベータやタウと呼ばれるタンパク質が、異常な形になって固まり、脳にたまっていくことが知られている。パーキンソン病でも、アルファシヌクレインというタンパク質の異常な凝集が、特徴的に見られる。本来なめらかに折りたたまれるはずのタンパク質が、間違った形になって寄り集まり、神経細胞に害をおよぼしていくのだ。
ただし、慎重に言えば、これらは「ミスフォールディングだけが唯一の原因」と言い切れるほど単純ではない。異常なタンパク質の凝集は、これらの病気の主要な特徴であり、深く関わる要因であることは確かだが、病気の全体像には、まだ解明されていない部分も多い。断定は避けつつ、重要な手がかりとして受け止めるのが正確だ。
それでも、タンパク質の正しい形と、間違った形を精密に理解できるようになれば、こうした病気の理解や、治療法の開発に役立つ可能性がある。AIによる構造予測が、脳の病気の謎に迫る道具の一つになりうる——そこに、多くの研究者が期待を寄せている。
なぜタンパク質が間違った形に折りたたまれてしまうのか、その引き金にも関心が集まっている。加齢や、細胞の中の環境の変化、遺伝的な要因など、さまざまなものが関わると考えられている。正しい形と異常な形、その両方をAIで詳しく比べられるようになれば、どこで、どのように折りたたみが狂うのかを探る手がかりが得られるかもしれない。病気の入り口を分子のレベルで見つめ直す——そんな研究の可能性が、静かに広がりつつある。
創薬は本当に速くなったのか


ここで、この記事の元になったタイトルの問い、「新薬開発は10倍速になるのか」に向き合っておきたい。結論から言えば、「10倍」という数字は、誇張である。
もちろん、AIが創薬を加速させた実例は、確かに出てきている。たとえば、あるがんの標的に対して、AIと予測構造を使い、わずか30日ほどでヒットとなる化合物を見つけ出した例が報告されている。別の研究では、AIが予測した構造を使うことで、薬候補を探し当てる効率が、従来の方法のおよそ2倍に高まったという。いずれも、目を見張る成果だ。
だが、「10倍速になる」といった具体的な倍率を裏づける確かな根拠は、見あたらない。個別の成功例を、業界全体の話へと安易に広げることはできないのだ。健康や技術の情報では、こうした景気のよい数字が、独り歩きしやすい。
そして、もっと大切な点がある。「構造が分かること」と「薬ができること」の間には、依然として大きな距離があるということだ。たとえ狙ったタンパク質の形が完璧に分かっても、その化合物が本当に体の中で効くのか、副作用はないか、安全に使えるのか——それを確かめる臨床試験の壁は、少しも低くなっていない。AIは、創薬の入り口を大きく広げた。だが、そこから薬が世に出るまでの長い道のりは、これからも人の手と時間を必要とする。期待と現実を切り分けて見ることが、この技術と正しくつきあうコツなのである。



形が分かるのはすごいけど、そこから薬になるまではまだ長いんだね。「10倍速」は言いすぎか!
その通り。すごい技術ほど、できることとできないことを冷静に見分けるのが大事なんだよ。
参考文献:
Highly accurate protein structure prediction with AlphaFold(Nature, 2021, DOI:10.1038/s41586-021-03819-2)
Accurate structure prediction of biomolecular interactions with AlphaFold3(Nature, 2024, DOI:10.1038/s41586-024-07487-w)
出典: Nature / The Nobel Prize in Chemistry 2024










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