脊髄損傷は、交通事故や転倒、スポーツの事故などで起こる重いけがだ。論文は、脊髄が傷つくと、元に戻らない麻痺や感覚の喪失につながることがあると書いている。
ノースウェスタン大学の2021年の発表によると、米国では30万人近くが脊髄損傷とともに暮らしている。
アメリカのノースウェスタン大学のサミュエル・スタップ教授は、2021年の発表で「現在、脊髄の再生を引き起こす治療薬はない」と述べていた。
教授らのチームは今回、ヒトのiPS細胞から直径数ミリの脊髄オルガノイド(培養した小さな立体組織)を育て、わざと傷をつけて、マウスで効果を確かめてきた治療用の分子「踊る分子」を試した。
人の患者での試験ではなく、培養したヒトの組織での実験だ。研究は2026年2月11日、Nature Biomedical Engineering誌に発表された。
そもそも、なぜ脊髄損傷は治らないのか

切り傷なら治るのに、神経は治らない
皮膚の傷は数日でふさがるのに、なぜ脊髄の神経は治らないのか。論文や大学の発表から読み取れる理由は、大きく二つある。
一つ目は、脳や脊髄をつくる中枢神経に、もともと自分を直す力がほとんどないことだ。
スタップ教授は2021年の発表で、中枢神経は「けがのあとや変性疾患が始まったあと、自分を修復する目立った力を持たない」と説明している。
2021年の論文も、大人の中枢神経では傷ついた軸索が再生できないことを、治療の難しさの理由に挙げている。二つ目は、傷の周りにできるグリア瘢痕が、軸索の再生を阻む強い壁になることだ。
日本では高齢者の転倒が最も多い
日本でも脊髄損傷は身近なけがだ。2018年に全国の病院を対象に行われた調査では、外傷による脊髄損傷(ごく軽いものを除く)は、人口100万人あたり年49人と推定された。
けがをした人の年齢の中央値は70歳で、70代が最も多く、首の部分の損傷(頸髄損傷)が88.1%を占めた。原因は平地での転倒が38.6%で最も多く、交通事故が20.1%で続いた。
10代ではスポーツが43.2%で最多だった。調査チームは、人口の高齢化とともに、転倒による頸髄損傷が増えているようだとまとめている。
実験室で育てた「小さなヒト脊髄」
研究チームが作ったのは、ヒトのiPS細胞から育てた、直径数ミリの立体的な組織、オルガノイドだ。
大学の発表によると、オルガノイドは臓器を単純にしたものだが、構造や細胞の種類、働きが本物の組織によく似ていて、病気の研究や治療の試験に使える。
動物実験や人での臨床試験より、速く安く研究を進められる利点もある。iPS細胞は、皮膚や血液などの細胞を「初期化」して、さまざまな細胞になれる状態に戻したものだ。
チームは数か月かけて、この細胞を脊髄の組織へと育てた。
このミニ脊髄には、信号を伝える神経細胞と、それを支えるアストロサイトという細胞が含まれていた。
脊髄オルガノイド自体は他のグループも作っているが、けがを再現できるほど成熟させた点が損傷研究での大きな前進だと、大学は説明している。
世界で初めて「免疫細胞」を組み込んだ
大学の発表によると、チームはさらに、脳や脊髄にいる免疫細胞のミクログリアを、ヒト脊髄オルガノイドに初めて組み込んだ。
脊髄損傷のあとに起きる炎症の反応を、よりよく再現するためだ。
スタップ教授は「これは、損傷に反応して体にもともといる免疫系が作り出す化学物質が、このオルガノイドにすべてそろっているということだ。そのぶん、脊髄損傷のより現実に近い、正確なモデルになる」と話している。

傷つけると、グリア瘢痕に似た組織ができた

神経再生を邪魔する「グリア瘢痕」
チームは、オルガノイドに2通りの方法で傷をつけた。一つはメスで切る裂傷で、手術の傷に近い。もう一つは押しつぶす挫傷で、大きな交通事故や転落によるけがに近く、動物実験でもよく使われる方法だ。
どちらの傷でも、すぐに神経細胞が死に、グリア瘢痕に似た組織ができた。大学の発表によると、細胞死、炎症、グリア瘢痕という、脊髄損傷の主な変化が見られた。
グリア瘢痕(はんこん)は、傷の周りに厚く積み重なる瘢痕組織で、神経の修復を妨げる物理的・化学的な壁になる。2021年の論文も、アストロサイトの瘢痕を、軸索の再生を阻む強い壁と書いている。
スタップ教授によると、オルガノイドの中で、ふつうの組織のアストロサイトと、瘢痕にいる大きく密に詰まったアストロサイトを見分けることができた。
神経系がけがや病気に反応して作る、コンドロイチン硫酸プロテオグリカン(CSPG)という分子も検出された。
「踊る分子」で瘢痕が薄れ、神経突起が伸びた
ここで登場するのが「踊る分子(dancing molecules)」だ。
ノースウェスタン大学のサミュエル・スタップ教授らが開発した治療で、超分子治療ペプチド(STPs)と呼ばれる種類に属する。
10万個以上の分子が集まった大きな集合体で細胞の受容体を働かせ、体がもともと持つ修復の合図を引き出すしくみだ。
名前の由来は、ナノファイバーの中で分子が速く動き、ときには繊維から一瞬離れることにある。
スタップ教授は2021年に「細胞そのものも受容体も常に動いているので、速く動く分子ほど受容体に出会う回数が多くなると考えられる。分子が鈍く『社交的』でなければ、細胞に触れることさえないかもしれない」と説明している。
分子の動きを変えると、働きが変わった
2021年の論文で、チームは信号の部分は同じまま、分子の動きやすさを決める4つのアミノ酸の並び(V・A・Gの組み合わせ)だけを変えた分子を8種類つくった。
そして、分子の揺らぎを蛍光偏光や核磁気共鳴(NMR)で測り、よく動くタイプと動きの鈍いタイプを見分けた。
ヒト胚性幹細胞から作った神経前駆細胞で試すと、最もよく動く2種類の分子では、神経細胞へ向かい始めた細胞が20.5%と20.7%だった。
動きの鈍い分子の多くは7〜8%台(たとえば8.2%)にとどまった。よく動く分子にカルシウムを加えて動きを抑えると、細胞のβ1インテグリン受容体の活性化と、その先の信号も弱まった。
論文は、分子の動きと試験管での働きに強い正の相関があるとしている。
ただし、マウスでの回復と分子の動きを直接結びつけるには、体の中で分子の動きを高い解像度で測る、今はない技術が必要だとも書いている。
足場になり、二つの合図を送る
注射した分子は、細い繊維が集まったゲルになり、脊髄の細胞外マトリックス(細胞のすき間を埋める骨組み)に似た足場をつくる。
繊維の表面には二つの信号が並んでいる。
一つはラミニンというタンパク質に由来するIKVAVという信号で、β1インテグリン受容体を活性化し、神経幹細胞が神経細胞になることと、軸索が伸びることを促す。
もう一つは成長因子FGF-2をまねた信号で、受容体FGFR1を活性化し、細胞の増殖や生存を助ける。2021年のマウスの実験では、傷の中に新しい血管ができることも確かめられた。
傷ついたミニ脊髄での結果
傷ついたオルガノイドを踊る分子で治療すると、瘢痕に似た組織が抑えられ、軸索の再生がはっきり見られた。マウスで以前に見られた結果と同じ傾向だ。
スタップ教授は「治療を加えると、グリア瘢痕は大きく薄れてほとんど見えなくなり、神経突起が伸びていくのが見えた。動物で見た軸索の再生に似ていた」と話す。
神経突起は、神経細胞から伸びる軸索などの突起のことだ。ミクログリアを組み込んだオルガノイドでは、治療によって、損傷に伴う炎症を起こす因子が減った。
傷つけていない健康なオルガノイドでも、踊る分子では表面から長い神経突起が伸びたが、動きの少ない分子や動かない分子では何も見られなかったという。
2021年にScience誌に報告されたマウスの実験では、重い挫傷の24時間後に、脊髄に一度だけ注射した。大学の発表によると、後ろ足が麻痺したマウスは4週間で再び歩けるようになった。
切れた軸索の再生、瘢痕の縮小、軸索を包む髄鞘の再形成、栄養を運ぶ血管の新生、運動ニューロンの生存の増加という5つの変化が報告されている。
注射した材料は1〜12週かけて少しずつ分解された。今回、培養したヒトの組織でも、瘢痕の抑制と神経突起の伸長という、マウスに近い結果が出た。
ヒトへの応用に向けて、慎重に

「マウス」と「ミニ組織」で効いた、の段階
今回の結果は、マウスと、培養したヒトの組織で得られたものだ。人の患者で効くかどうかは、臨床試験で確かめるまでわからない。
スタップ教授は「オルガノイドのいちばん面白いところは、ヒトの組織で新しい治療を試せることだ。臨床試験を除けば、それができる方法はこれしかない」と話し、今回の結果を、人でもうまくいく見込みが十分にあることの裏づけだと述べている。
ただしこれは開発者自身の見方で、著者のうち4人は、この研究に関わる特許出願の共同発明者でもある。
特に難しいのが、けがから時間のたった慢性期の損傷だ。慢性の損傷では、瘢痕がより厚く、長く残るのがふつうだ。
チームは今後、こうした慢性の損傷を再現するオルガノイドを作る予定で、慢性期に効くかどうかはまだわからない。
この治療は、米国食品医薬品局(FDA)から希少疾病用医薬品(オーファンドラッグ)の指定を受けている。
脊髄だけにとどまらない可能性
スタップ教授は2021年の発表で、損傷した脊髄で再生できた中枢神経の組織は、脳卒中やALS、パーキンソン病、アルツハイマー病などで傷つく脳の組織に似ていると話していた。
今回の論文も、ヒト脊髄オルガノイドのモデルが、けがや病気で傷ついたほかの中枢神経の治療法探しにも役立つかもしれないとしている。
教授は、将来は患者自身の幹細胞から移植用の組織を作り、拒絶反応の危険を減らす個別化医療にもつながりうると述べている。
一方で論文は、動物での治療を人に移すことは、いまも実現していないと書いている。オルガノイドは臓器を単純にしたもので、本物の脊髄そのものではない。
魔法じゃなくて、ちゃんと理由があったんだね。でも「まだヒトでは試してない」ってところは、ごまかさないのが大事なんだ。
そう。科学は「どこまで分かって、どこからが未来の話か」を正直に線引きするのが大事なんだ。次は、慢性期のけがを再現したモデルで確かめる番だよ。
参考文献
Takata N, Stupp SI, et al. 『Injury and therapy in a human spinal cord organoid』 Nature Biomedical Engineering, 2026. DOI: 10.1038/s41551-025-01606-2
Álvarez Z, Stupp SI, et al. 『Bioactive scaffolds with enhanced supramolecular motion promote recovery from spinal cord injury』 Science, 2021. DOI: 10.1126/science.abh3602(本文: PMC8723833)
ScienceDaily (2026-02-16): Lab grown human spinal cord heals after injury in major breakthrough
論文の抄録(PubMed): PMID 41673139
ノースウェスタン大学の発表(2021年11月11日): ‘Dancing molecules’ successfully repair severe spinal cord injuries
Miyakoshi N, et al. 『A nationwide survey on the incidence and characteristics of traumatic spinal cord injury in Japan in 2018』 Spinal Cord, 2021. DOI: 10.1038/s41393-020-00533-0









