量子アニーラの実験は古典計算機の手が届かないと主張されていたが、その計算を古典計算機で再現した論文が出た。
米シモンズ財団フラットアイアン研究所の計算量子物理学センター(CCQ)、イタリアの国際高等研究院(SISSA)、米ボストン大学の研究者5人が、2026年5月21日発行の学術誌『Science』第392巻・第6800号・868〜872ページに発表した。
最初の計算の多くは、筆頭著者が自分のノートPCで行ったものだ。
キク古典計算機では手が届かないって、そもそも誰がどんな計算で言い出したんだろう?
1年前の「古典計算機では無理」という主張


きっかけは、別のチームが2025年3月にScience誌で発表した論文だった(プレプリントは2024年3月に公開)。
カナダの量子計算機メーカーD-Waveの研究者らを含む63名が連名で発表した『Beyond-classical computation in quantum simulation』(筆頭著者Andrew D. King氏)。
実験に使ったのは、D-Wave社の量子アニーラ「Advantage2」。特定の計算に特化した方式の量子計算機だ。
論文は、2次元・3次元のスピングラスの時間発展を量子アニーラで計算し、テンソルネットワークやニューラルネットワークに基づく主要な近似手法は、現実的な時間では量子アニーラと同じ精度に達しないと報告した。
そのため量子アニーラは、古典計算の手が届かないままの問題に答えられる可能性があると結論している。
この主張に引っかかったのが、シモンズ財団CCQの研究者たちだった。
「こういう主張を見るたび、私たち[CCQ]はいつも少し懐疑的になる。『これは試した? あれは試した?』ってね」と、新論文の筆頭著者でCCQのJoseph Tindall氏は語っている。
共著者でCCQ研究員のMiles Stoudenmire氏は、この問題を自分たちの道具の「試運転」に使える機会だったと話す。
「もっと任意の目標を選ぶこともできた。でも、『大きな主張がついているこれを選んではどうか』という感じだった」。
「量子でしか無理」の壁は『量子もつれ』
そもそもなぜ、量子コンピュータでしか解けないと言われるのか。答えは量子もつれにある。量子ビット同士が結ばれると、たとえ引き離しても片方の状態がもう片方に影響し続ける。
1個ずつ独立に扱えないため、ビットが増えるたびに全体の状態を書き記す波動関数が指数関数的に肥大化していく。
Tindall氏は波動関数を「粒子が多いほど急速にどんどん大きくなる、巨大な対象」と説明する。
今回の問題は数百個の量子ビットが相互作用する系で、波動関数の大きさは指数関数的に増えるため、「自分のコンピュータには直接保存できない」という。
波動関数の『zipファイル』テンソルネットワーク
CCQチームが選んだ武器はテンソルネットワークという数学の枠組みだった。波動関数の中に潜む冗長な情報を圧縮し、小さな数表を絡み合わせた網目として書き直す手法だ。
Tindall氏はテンソルネットワークを「波動関数のzipファイル」にたとえ、すべての情報を、互いにつながった小さな数表の形に圧縮した数学的なデータ構造だと説明している。
今回の論文では、量子ビットを並べた格子の形に合わせた構造のテンソルネットワークを使い、2次元と3次元の系を扱っている。
最初の計算には、CCQが開発した高性能なテンソルネットワークのライブラリITensorのコードを使い、3次元の動きは3次元のテンソルネットワークで表した。
1980年代の『信念伝播』が息を吹き返す
もう一つの立役者は、意外にも1980年代生まれの古いアルゴリズムだった。
信念伝播(belief propagation)と呼ばれる算法で、1980年代に開発され、近年になって量子系向けに応用された。
Tindall氏は最初の計算にこれを使った。
論文では、テンソルネットワークの各部分が隣どうしでメッセージをやり取りして近似を求める「メッセージパッシング」の方式として使われている。
時間発展の計算はこの方式で進め、測定値は、輪の影響を補正するより精密な方法で求めた。
「他のいくつかの手法より少し近似が粗いが、はるかに安上がりで、もっと難しい問題の多くに、ずっと直接使える」とStoudenmire氏は説明する。
この分野でこれまで使われてきたより高度な方法では、3次元の問題の一部は大きすぎて「そもそも計算を始めることさえできない」と、Stoudenmire氏は対比している。
未踏だった3次元テンソルネットワーク
今回のシミュレーションは、量子ビットを円筒状にした正方格子、ダイマー化した立方格子、ダイヤモンド格子の3種類に並べたモデルを対象にした。
King論文と同じ種類のスピングラスの量子アニーリングを、同じ焼きなましスケジュールで計算している。
ダイヤモンド格子では最大900個の量子ビットまで調べた。正解との比較を要しない平均ゲート誤差などの指標を調べ、100個以上ではほぼ一定の値に落ち着いたという。
Tindall氏は「これは本当にちょっとした最前線だ。こうした対象を扱うのは、特に3次元では、ほとんど誰も踏み込んでいない。高度なコードとアルゴリズムが必要で、それ自体がソフトウェア工学の課題でもある」と述べている。
輪を含むテンソルネットワークでは、計算に必要な導関数を効率よく求めることが一般にはできない。
論文はこの問題に、近似的な低ランクの形を使う信念伝播で対応し、測定値は輪の補正を加えた方法で求めた。
精度は量子アニーラと同等以上


結果はどうだったか。ハードは控えめでも、精度は最先端の水準に達した。答えがすでに分かっている小さめの問題では、理論値と一致した。
同じ問題でD-Waveの量子アニーラと比べると、円筒状の正方格子とダイヤモンド格子では誤差が量子アニーラより明確に小さく、ダイマー化した立方格子では同程度だった。
量子ハードウェアは使っていない。Tindall氏の初期の計算の多くは、自身のノートPC上で走った。
論文の図3に示された所要時間は、時間発展がIntel Xeon Gold 6244のCPU、相関の測定がNvidia RTX A6000のGPUで測ったものだ。
立方格子で誤差が量子アニーラと同程度にとどまった理由について論文は、36個と54個の量子ビットの格子では周期境界のために長さ3の短い輪ができ、これが誤差を増やすためだろうとしている。
格子が大きくなれば最小の輪の長さは4になり、誤差は減ると予想している。また計算にかかる時間は、量子ビットの数にほぼ比例して増えるという。
Tindall氏は「ある種のシミュレーションに取りかかるハードルは、私たちのほうが量子計算の研究者よりずっと低い。量子コンピュータを作らなくていいからだ。コードを書いて、自分のパソコンで『実行』を押すだけでいい」と話す。
ただし、King氏らは、Tindall氏らのプレプリント(2025年3月7日公開)から3週間足らずの3月25日に、arXivで反論のコメントを公開した。
コメントは、Tindall氏らの手法を「古典の最先端を大きく改善するもの」で、一部では量子アニーラによる最近の計算より誤差が小さいと認めている。
また、Tindall氏らはKing論文の最も複雑な格子の形や3次元で最大の系を扱っておらず、最も長い時間や、相関が最も速く伸びる低精度の条件も計算していないと指摘した。
さらに、「この研究は、古典的手法の手が届かない量子シミュレーションの実証というKing論文の主張を覆したものと、誤解されるべきではない」と書いている。
King氏らは、こうした古典側の進歩は、古典計算を超える計算が実証された条件の範囲を狭めるものだとも書いている。
2つの論文を並べてみる
争点を整理しておこう。同じ『Science』誌に、約1年をはさんで真逆のメッセージを持つ論文が並んだ形だ。
前者は量子アニーラでの計算を古典計算機が追いつけないものとして示し、後者は同じ種類の問題の一部の格子で、古典の手法でも量子アニーラと同等以上の精度が出せることを示した。
何が同じで何が違うのか、表にまとめる。
| 比較項目 | King et al. 2025 | Tindall et al. 2026 |
|---|---|---|
| 掲載 | Science 388(6743):199-204 | Science 392(6800):868-872 |
| 使ったハード | D-Waveの量子アニーラ Advantage2 | ノートPC、CPU・GPUなどの古典計算機 |
| 主張 | 古典計算機では追いつけない | 一部の格子では古典でも同等以上の精度が出せる |
| 鍵となる道具 | 量子ビットハードウェア | テンソルネットワーク+信念伝播 |
| DOI | 10.1126/science.ado6285 | 10.1126/science.adx2728 |
ただし、量子計算機の側が完全に敗れたわけではない。King氏らの反論のとおり、古典の手法でまだ再現されていない条件は残っている。
古典と量子の計算は互いの目安になる
Tindall氏は「古典か量子かという議論の良い面は、私たちが関心を持つ種類のシミュレーションや私たちが書くコードと、こうした量子コンピュータで実現できることの間に、多くの相乗効果があることだ」と話す。
量子計算機を作らなくても試せる古典の計算は、量子計算機の研究者にとっても道しるべになるという。研究チームの次の目標は、量子ビットだけでなく、サイト間を動き回る電子を含む系の再現だ。
Stoudenmire氏はこの課題について、「実際、定量的にずっと難しい問題だ」と話す。量子材料のシミュレーションに直結する課題だという。



参考文献:
一次ソース: Joseph Tindall et al., Dynamics of disordered quantum systems with two- and three-dimensional tensor networks (Science, 2026, 392(6800):868-872) DOI:10.1126/science.adx2728(arXiv版 2503.05693)
比較参照: Andrew D. King et al., Beyond-classical computation in quantum simulation (Science, 2025, 388(6743):199-204) DOI:10.1126/science.ado6285
反論コメント: Andrew D. King et al., Comment on: “Dynamics of disordered quantum systems with two- and three-dimensional tensor networks” (arXiv:2504.06283)
研究機関: シモンズ財団フラットアイアン研究所 計算量子物理学センター(CCQ)/国際高等研究院(SISSA、イタリア)/ボストン大学 二次ソース: Simons Foundationのプレスリリース、ScienceDaily









