ねえはかせ、髪の毛って毛根で新しい細胞ができて、それが古い細胞を上に押し上げて伸びるんだよね?
それがね、教科書のその説明、実は間違ってたことが分かったんだ。ロンドン大学とL’Oréalのチームが3D顕微鏡で観察したら、髪はむしろ上から『引っ張り上げられて』伸びていたんだよ
2025年11月、Nature Communications誌で発表されたこの研究は、生物の教科書に何十年も書かれてきた「毛根が下から髪を押し出す」という説明を根本から覆した。カギを握っていたのは、髪そのものではなく、髪を取り囲む周辺細胞の意外な動きだった。私たちが毎朝当たり前に見ている髪の一本一本が、実は思っていたのとまったく逆の仕組みで伸びていた——そんな話だ。
そもそも髪は、どこで、どうやって作られるのか


本題に入る前に、髪が生まれる現場を少しだけのぞいておこう。髪は皮膚に埋まった袋状の組織、毛包(もうほう)から生えている。その一番奥にある膨らんだ部分が毛球(もうきゅう)で、ここが髪の工場だ。
毛球の底には、血管がぎっしり入り込んだ毛乳頭(もうにゅうとう)という小さな司令塔がある。ここが酸素や栄養を受け取り、周りを取り囲む毛母(もうぼ)細胞に「増えろ」と指令を出す。指令を受けた毛母細胞は猛スピードで分裂し、それが髪の本体である硬いケラチン繊維へと姿を変えていく。ここまでは、今回の研究でも変わらない事実だ。
髪には作られては抜け、また作られる周期、いわゆるヘアサイクルがある。頭皮の毛の約9割はぐんぐん伸びる成長期にあり、これは2〜6年も続く。残りが退行期(数週間)と休止期(2〜3か月)で、ここで髪は成長を止めて抜け落ちる準備に入る。髪が1か月に約1〜1.5cm伸びるのは、この成長期の毛包が休みなく働いているからだ。今回観察されたのは、まさにこの成長期まっただ中の毛包である。
ここで一つ押さえておきたいのが、髪の本体と、それを包む「鞘(さや)」の関係だ。毛球で作られた細胞は、内側で髪そのもの(毛幹)になるものと、その周りを筒のように覆う内毛根鞘・外毛根鞘になるものに分かれていく。髪はこの二重の筒に包まれながら、毛穴という細いトンネルを上へと進んでいく。これまで主役はあくまで真ん中の毛幹で、外側の鞘はそれを守る「壁」だと考えられてきた。ところが今回、その脇役だと思われていた壁こそが、髪を動かす原動力だったことが明らかになる。話の伏線はここにある。
教科書の『押し出す』モデルはどこで破綻したか
これまでの生物学の教科書はこう説明していた。毛球で新しい細胞ができるたびに、古い細胞が押し上げられ、上へ上へと積み上がった結果、皮膚から髪の毛が伸び出てくる——ちょうどベルトコンベアで箱を押し上げるようなイメージだ。爪が伸びる仕組みも似た説明で語られてきたので、直感的には納得しやすい。
ところが今回の研究チーム、ロンドン大学クイーン・メアリー校とL’Oréal Research & Innovationのグループは、この説明に長年ひっかかりを感じていた。細胞分裂の勢いだけで、あの硬いケラチンの繊維を上に押し上げる摩擦に本当に勝てるのか、力の計算が合わなかったのだ。しかも髪は、毛穴の狭い隙間を通り抜けていく。押し出しモデルでは、その隙間で必ず詰まるはずだった。
問題は、これまで誰もその瞬間を「動画」で見たことがなかった点にある。従来の顕微鏡は固定した標本の静止画しか撮れない。教科書の「押し上げモデル」は、静止画をつなぎ合わせて想像で補った、いわば紙芝居のような理解だった。細胞が実際にどちらへ動いているかは、誰も直接確かめていなかったのだ。
そこで彼らは、生きた人間の毛包を研究室で培養したまま、内部の細胞ひとつひとつの動きを追える3Dタイムラプス顕微鏡という新しい観察方法を投入した。この手法なら細胞の動きが動画として残る。すると教科書とは真逆の光景が広がっていた。
毛穴の中で見つかった『引き上げエンジン』


チームが注目したのは、髪を筒のように取り囲む細胞層、外毛根鞘(がいもうこんしょう)だった。英語ではouter root sheath、略してORS。従来は「毛を支える壁」くらいにしか扱われていなかった、いわば脇役の場所だ。
動画には、この壁の細胞たちが下向きにらせんを描きながら動いている様子が映っていた。しかも、そのらせん運動が生まれる場所と、髪を上へ引き上げる力が発生している場所が、ぴったり重なっていた。壁が下へ回転しながら流れることで、真ん中の髪が相対的に上へ運ばれる——つまり毛包は、周囲がねじれて中身を送り出す小さなモーターのように働いていたのだ。研究者自身もこの構造を「a tiny motor(小さなモーター)」と表現している。
イメージしにくければ、下りのエスカレーターの手すりに逆立ちして掴まる場面を想像してほしい。床は下に動いているのに、掴まっている自分は上に運ばれていくように見える。あるいは、チューブ入りの練り歯磨きを、後ろから押すのではなく、まわりの筒をよじって中身を絞り上げるようなもの。毛穴の中では、それと似た物理現象が起きていた。
決め手は『止めてみる』実験だった
らせんが見えただけでは、それが本当に髪を伸ばす原動力なのかは分からない。相関(同時に起きている)と因果(それが原因)は別物だからだ。そこでチームは、原因を切り分けるために「片方だけを止める」二つの実験を行った。これがこの研究の背骨と言っていい。
まず、毛包の細胞が分裂できないように薬で止めた。教科書どおり「分裂した細胞が下から押し上げる」のが正しければ、髪の伸びは急ブレーキがかかるはずだ。ところが結果は真逆で、髪はほぼ同じ速度で伸び続けた。新しい細胞が作られないのに、髪は上に動く。押し出しモデルだけでは、この事実は絶対に説明できない。
次にチームは、細胞の骨格と動きを担うタンパク質アクチンを狙い撃ちで止めた。アクチンは細胞が形を変えたり移動したりするのに使う、いわば筋肉繊維のような存在だ。すると髪の伸びは80%以上も落ち込んだ。細胞分裂は起きているのに、髪はほとんど動かない。
この二つを並べると、話はきれいに反転する。分裂を止めても髪は伸びる。しかし動き(アクチン)を止めると髪は伸びない。つまり髪を伸ばす真の主役は細胞分裂ではなく、周辺細胞が生み出す『動き』そのものだったのだ。コンピューターによる流体力学シミュレーションでも、外毛根鞘の細胞がらせん状に動いたときの力を計算すると、実際に観察された髪のスピードとぴたりと一致した。第一著者Nicolas Tissot博士ら、L’Oréalとクイーン・メアリー校の研究者たちは、静止画だけを見ていた時代には見えなかった真実が、動きの中に隠れていたと結論づけている。
薄毛治療の景色が、これから変わる


今、市販されている薄毛治療薬は、細胞分裂を活発化させたり、ホルモンを抑えたりして髪の再成長を狙うものが中心だ。ミノキシジルもフィナステリドも、突き詰めれば毛球に「もっと分裂して働け」と命令する薬である。いずれも生化学的な信号(シグナル)に働きかけるアプローチだ。
しかし今回の発見は、まだ誰も触っていないもう一つの治療標的があることを示している。外毛根鞘の細胞が下向きに動く『モーター』を助けるアプローチ、つまり細胞の力学的な挙動そのものに手を入れる発想だ。アクチンの機能を保ったり、細胞の連携運動を強化する薬ができれば、細胞分裂に頼らず髪の伸びを取り戻せるかもしれない。育毛の研究が「化学」だけでなく「力学」という新しい軸を手に入れた、と言い換えてもいい。
研究チームは、この3D観察システム自体が薬の開発を前進させると考えている。今までは開発中の薬を試しても、実際に髪が伸びる現場は直接見えなかった。ライブ映像で『引き上げる力』の変化を可視化できれば、候補薬を絞り込む作業がぐっと効率化される見込みだ。視点はさらに広がる。研究チームが強調するのは、皮膚や消化管、血管など、体の中で組織が動き続けている場所ならどこでも、同じ物理原理が働いている可能性があることだ。生き物の形が化学信号だけでなく細胞が発する物理的な力で決まっているという、生物物理学の新しい章が開こうとしている。
期待しすぎは禁物——ここは冷静に
ワクワクする発見だが、線引きははっきりさせておきたい。今回の研究はメカニズムを解明した基礎研究であって、育毛剤ができたという話ではない。著者らも「一つのモデルを提案する」という慎重な言い回しをしている。ここから実際の治療薬にたどり着くには、追試と長い開発期間が必要だ。
もう一つ大事なのが実験の条件だ。今回の観察は、頭皮からピンセットで抜き取った毛包をシャーレの中で生かしたex vivo(体外培養)という状態で行われた。人の体に手を入れずに済む優れた方法だが、裏を返せば「頭についたままの生きた頭皮」で同じことが起きているかは、まだ直接には確かめられていない。次のステップは、この観察を実際の頭皮上でも再現することになる。ここで同じ結果が出れば、教科書の書き換えは決定的になるだろう。
個人的におもしろいと感じるのは、この発見が「当たり前だと思っていたことほど、誰もちゃんと見ていなかった」という科学のクセを見事に突いている点だ。髪が伸びる仕組みなど、とっくに解明済みだと誰もが思い込んでいた。それでも、動きを動画で追える技術が一つ加わっただけで、数十年の定説がひっくり返る。新しい発見は、必ずしも遠い宇宙の果てや深海の底にあるわけではない。自分の頭のてっぺんという、一日に何度も鏡で見ている場所にすら、まだ解かれていない謎が眠っていた。科学の教科書は完成された石板ではなく、いまも書き換えられ続けている下書きなのだと、改めて思わされる研究だと考えている。
じゃあ、髪ってエスカレーターに乗ってるみたいなんだ!
そういうこと。押されて上に行くんじゃなくて、周りの壁が下に流れて、髪はそれに乗ったまま外へ運ばれてるんだね
今朝も鏡の前で見た自分の髪は、毛穴の奥で細胞たちが休みなくらせんを描き続けているから伸びている。ずっと正しいと思われてきた説明が、たった一つの新しい観察でくつがえる。薄毛や白髪が気になる人にとっての希望であると同時に、身近なところにこそ未解明の謎が残っているのだと教えてくれる、そんな発見だ。
参考文献:
Tissot N, Genty G, Santoprete R, et al. Mapping cell dynamics in human ex vivo hair follicles suggests pulling mechanism of hair growth. Nature Communications, 2025; 16(1):10267. DOI: 10.1038/s41467-025-65143-x
Nature Communications 原論文
Textbooks were wrong: Scientists reveal how human hair really grows(ScienceDaily)










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