ヨーロッパの氷河期(上部旧石器時代)の洞窟の壁や骨には、動物の絵とともに、点や線、Y字の印が数多く残っている。
約150年のあいだ、その意味は解明されてこなかった。
2023年、独立研究者のベネット・ベーコン氏らは、動物に添えられた点や線を、獲物の繁殖の時期を月で記した暦だとする仮説を、ケンブリッジ考古学ジャーナルで発表した。
ただし、この説は確定した事実ではない。同じ2023年には、方法の問題を指摘する反論が別の学術誌に出ている。この記事では、論文が何を主張し、どこに疑問が出ているかを整理する。
氷河期の人々が刻んだ、謎の印
上部旧石器時代、およそ数万年前のヨーロッパの洞窟や骨角器には、動物の絵とともに、点(ドット)や線、Y字といった幾何学的な記号が繰り返し現れる。
ラスコー、ショーヴェ、アルタミラなど少なくとも400のヨーロッパの洞窟で、こうした具象的でない印が描かれたり刻まれたりしている。
それらが何を意味するのかは、長らく謎のままだった。
独立研究者の気づき
この仮説を考えたのは、大学などに所属しない独立研究者のベネット・ベーコン氏だ。
ベーコン氏は、大英図書館の資料やインターネットで公開されている洞窟壁画の画像を集め、繰り返し現れるパターンを探したと語っている。
論文の著者は6人。
ベーコン氏のほか、独立研究者2人、ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ(UCL)機械工学科のトニー・フリース氏、ダーラム大学のポール・ペティット氏(考古学)とロバート・ケントリッジ氏(心理学)だ。
ベーコン氏は、友人や大学の研究者に声をかけて理論の裏付けを得たと述べている。

点と線は「獲物の暦」だった?
春を起点に、月を数える
論文の核心はこうだ。動物の絵に添えられた点や線の数は、その動物の交尾や出産の時期を、太陰暦の月で数えた数字だというのだ。
数え始めは、冬の終わりに川の氷が解け、雪が消えて緑が戻る時期で、おおむね晩春にあたる。論文によると、調べた点・線の列はどれも13個以下で、これは太陰暦の1年の月の数と合う。
点や線だけの列では、本数が主に交尾の時期に対応する、と論文は述べる。たとえばバイソンの交尾は8月ごろで、数え始めから3〜4か月目にあたる。
キク点や線の列に混じるY字の印には、どんな意味があるんだろう?
Y字は「出産」のしるし
もう一つの鍵がY字の記号だ。著者らは、一本の線から二本目が枝分かれするこの形を「出産する」を表す記号と解釈した。
列の中でY字が何番目にあるかが、その動物が出産する月を示すという。論文が分析したのは、Y字を含まない606列とY字を含む256列、合わせて862列で、多くはフランスとスペインのものだ。
統計(ロジスティック回帰)では、Y字の位置が出産期をよく予測し(p < 0.0146)、Y字のない列の長さが交尾期をよく予測した(p = 0.00236)という。
もしこの読み方が正しければ、氷河期の人々は動物ごとの交尾や出産の月を、春から数えた数字と記号で物に刻んでいたことになる。
論文は、この仕組みの目的を、特定の獲物の季節ごとの行動を記録し伝えることだったと考えている。
季節の情報を残す意味


獲物は季節とともに動く
論文によると、氷河期の主な獲物だったウマ、シカ類、ウシ類、マンモスなどの草食動物は、現代の近縁種と同じく、交尾と出産の季節があり、その間に春と秋の移動をはさむ。
著者らは、こうした情報を絵と数字で物に残すことで、口伝えよりも誤りの少ない形で観察を積み重ねられたと考えている。
ラスコー洞窟(約2万1500年前)では、体型や毛並みの描き分けで複数の獲物の発情の順序が示されていたと、論文は先行研究を引いて述べている。
「原始文字」と、本当の文字の違い
論文の著者らも、この記号を私たちの使う「文字」と同じとは言っていない。
話し言葉の文法を表すものではないため、「原始文字(プロト・ライティング)」という呼び方にとどめ、暦の形をとった記録だと位置づけている。
比べられているのは、紀元前3300年ごろのシュメールで、数を表す記号をもつ絵文字から生まれた楔形文字だ。
著者らは、文字に近い記録の形が、最初期のシュメールの文字より数万年前にあったことになる、と書いている。
ただし——これは「確定」ではない
ベーコンらの論文はケンブリッジ考古学ジャーナルに掲載されたが、定説にはなっていない。
同じ2023年、サラマンカ大学のミゲル・ガルシア=ブストス氏ら4人が、別の学術誌『Journal of Paleolithic Archaeology』に反論を発表した。
結論は「この提案には方法上の裏付けがなく、旧石器時代の美術に暦があったと結論することはできない」というものだ。
反論は、使われた資料の正確さを問題にしている。
エル・ピンダル洞窟のマンモスでは、論文が使った1911年の模写図が壁面の配置と合わず、線の列はマンモスから75〜168センチ離れた別の場所にあるという。
Pair-non-Pair、Sotarriza、Atxurraの各洞窟では、論文が使った記号が実際にはないと指摘している。
Altxerri、Covaciella、Tito Bustilloでは、記号の解釈が誤っているという。



洞窟の点や線を獲物の暦と読む説には、使われた模写図や記号が正確じゃないっていう反論も出てるんだね。
解釈の「恣意性」という難問
反論はさらに、方法の前提にも疑問を向ける。
論文は何を「関連している」とみなすかを定義しておらず、一般には、同じ壁面の中でモチーフどうしの距離が最大のモチーフの長さを超えないものを関連とみなすという。
また、点と線を区別せずに数えていること、調べる記号を点・線・Y字の3つに絞った理由の説明がないことも挙げている。
論文のデータにも13個を超える列(ラスコーの馬の29個の赤い点、ショーヴェのトナカイの20個の点など)があるのに、13か月の暦で説明していると批判している。
さらに、点や線を太陰暦の月と読むのは現代の発想を持ち込んだ見方で、証明できないと指摘する。
Y字を出産の記号とする解釈も主観的で方法上の疑問があり、列を左右どちらから読んだのかが分からなければ、Y字が何番目かも決まらないという。
著者らが認めていること
著者ら自身も、この説の限界を認めている。この仮説は、動物に添えられた点や線のすべてを説明するものではなく、ヨーロッパのすべての時代・集団がこの仕組みを使っていたと言うものでもない。
印のない動物の絵のほうがはるかに多いことも認めている。また、この情報が誰に見えて、誰が読めたのかは分からないと書いている。
現時点での位置づけ
論文は点・線・Y字を暦の記録と読めると主張し、反論は方法上の問題から暦の存在は結論できないと述べている。2つの主張はまだ決着していない。
参考文献:
An Upper Palaeolithic Proto-writing System and Phenological Calendar
Bacon et al., Cambridge Archaeological Journal (2023). DOI: 10.1017/S0959774322000415
論文は誰でも読めるオープンアクセス。
反論: García-Bustos et al., Journal of Paleolithic Archaeology 6:32 (2023). DOI: 10.1007/s41982-023-00158-8
解説記事: Sci.News









