シルミーはかせ、クモの糸って鋼鉄より強いって本当? あんなに細くてふわふわなのに?
いい質問だ。ただ「強い」の中身が肝心でね。実はクモの糸のすごさは「いちばん強い」ことじゃなくて、「いちばん粘り強い」ことにあるんだ。しかもその秘密は、化学でいちばん弱い結合が握っている。逆説だらけの、面白い話だよ。
クモの糸は、髪の毛よりずっと細いのに、同じ重さで比べれば鋼鉄の5倍もの強さを持つ。この事実は、材料科学者たちを長年ひきつけてきた。だが、なぜそんなことが可能なのか——その答えは意外にも、化学結合の中でもっとも弱い部類に入る「水素結合」にあった。弱いはずのものが、集まると鋼鉄を超える。この不思議なからくりを、順に解き明かしていこう。
まず「強い」の正体を正しく知ろう


クモの糸のすごさは、しばしば大げさに語られる。だから最初に、数字で正確につかんでおきたい。クモが命綱として使う「牽引糸」の引っ張り強度は、およそ1〜1.7ギガパスカル。同じ太さの鋼鉄に匹敵し、なにより鋼鉄の6分の1ほどしかない軽さを考えれば、重さあたりでは鋼鉄の約5倍という驚異的な強さになる。
ただし、ここで一つ誤解を正しておきたい。「クモの糸は防弾チョッキのケブラー繊維より強い」とよく言われるが、純粋な引っ張り強度ではケブラーのほうが上だ。ケブラーは約3ギガパスカルと、クモの糸を上回る。ではクモの糸は何が優れているのか。それは「靭性(じんせい)」——切れるまでにどれだけ大きなエネルギーを吸収できるか、という粘り強さだ。この靭性でこそ、クモの糸はケブラーを約3倍も上回る。クモの糸は「最強」ではなく「最タフ」。この違いが、話の芯になる。
硬いのに、よく伸びる — 矛盾を生きる糸


粘り強さの秘密は、まず「硬いのに、よく伸びる」という一見矛盾した性質にある。クモの牽引糸は、切れる前に元の長さの約30〜40%も伸びる。鋼鉄がわずか数%で切れてしまうのと比べると、その柔軟性は桁違いだ。
ふつう、材料は「硬ければ脆く、柔らかければ弱い」というトレードオフから逃れられない。硬いガラスは強いが、落とせば一瞬で割れる。柔らかいゴムはよく伸びるが、力には弱い。ところがクモの糸は、この二つを同時に成り立たせている。なぜそんな芸当ができるのか。鍵は、糸の内部に隠された二つの顔を持つ構造にあった。
糸の主役は「二重人格」のタンパク質


クモの糸の主成分は、スパイドロインと呼ばれる巨大なタンパク質だ。アミノ酸が長い鎖のようにつながってできた巨大な分子で、その大きさは一般的なタンパク質の何倍にもなる。その長い鎖の中に、性質の異なる二つの領域が交互に、規則正しく並んでいる。
一つは「結晶領域」。アラニンというアミノ酸が並んだ部分が、板を積み重ねたような「βシート」という硬い構造をつくる。ここが糸の強さを支える。もう一つは「非結晶領域」。グリシンに富んだ、ぐにゃぐにゃと自由に動ける部分で、こちらが伸びる柔らかさを生む。硬い結晶と柔らかいマトリックスが同居する——いわば一つのタンパク質の中に、鉄筋とゴムが共存しているのだ。牽引糸ではおおよそ結晶が3割、非結晶が7割ほどの割合で組み合わさり、この配合が強さと粘り強さの絶妙なバランスを生んでいる。
なぜ「最弱の結合」が鋼鉄を超えるのか


さて、いよいよ核心だ。硬い結晶領域で、βシート同士を結びつけているのは「水素結合」という力である。ところがこの水素結合、化学結合の中ではもっとも弱い部類に入る。共有結合のような強い絆に比べれば、数分の一の弱さしかない。それなのに、なぜ鋼鉄を超える強さが生まれるのか。
この謎に答えを出したのが、アメリカのマサチューセッツ工科大学(MIT)のブーラーらの研究チームだ。彼らはコンピューター上で分子の動きをシミュレーションし、驚くべき事実を突き止めた。βシートの結晶をおよそ3ナノメートル(1ナノメートルは100万分の1ミリ)という極小サイズに小さく閉じ込めると、水素結合が最も力を発揮するというのだ。
小さく閉じ込められた結晶では、多数の水素結合が一斉に、協力して力を受け止める。一部に負担が集中して先に壊れる、ということが起きにくい。さらに、結合が「いったん外れてはまた結びつく」を繰り返し、滑りながらエネルギーを逃がす。逆に結晶が大きすぎると、一か所に力が集中してあっけなく壊れてしまう。つまり「小さいほど強い」という、直感に反する結論だった。弱い結合も、極限まで小さくまとめれば、鋼鉄をしのぐ強さに化けるのである。
マジックテープと「わざと切れる結合」


この仕組みは、身近なマジックテープによく似ている。マジックテープの小さなフックは、一本なら指先で簡単に外れる。ところが何百本も集まると、大人が力いっぱい引いても剥がれない。しかも一度剥がしても、また貼り直せる。クモの糸の水素結合も同じで、一つ一つは弱くても、無数に集まり、外れては結び直すことで、途方もない強さと粘りを生み出す。
さらにクモの糸には、粘り強さを支えるもう一つの巧妙な仕掛けがある。糸を引っ張ると、まず弱い結合がわざと先に切れる。すると、それまで畳まれて隠れていた分子の鎖がほどけて伸び出す。この「隠れていた長さ」がほどける過程で、糸は大量のエネルギーを吸収する。まるで、ほどけながら踏ん張る安全ロープのようだ。主鎖そのものを断ち切るよりずっと多くのエネルギーを稼げるため、この「犠牲になる結合」の働きこそが、クモの糸を桁外れにタフにしている。牽引糸が壊れるまでに吸収するエネルギーは、なんと高張力鋼のおよそ100倍にも達する。
クモは「7種類の糸」を作り分ける職人


ここまで牽引糸を中心に見てきたが、実はクモは一種類の糸だけを作っているわけではない。多くのクモは体内に7種類もの糸を作る腺を備え、用途に応じて糸を使い分ける、まさに天然の糸工房だ。
命綱や網の骨組みになる丈夫な牽引糸、獲物を捕らえる粘着性の高い捕獲糸、卵を守る卵嚢の糸、糸を壁に固定する接着ディスク——それぞれに求められる性質はまるで違う。とりわけ捕獲糸は、切れる前に元の長さの2〜5倍にも伸びる驚異的な柔軟性を持つ。そしてクモは、これらをアミノ酸配列をほんの少し変えるだけで作り分けている。硬い結晶の割合や水素結合の配置を微調整することで、「最強の命綱」から「よく伸びる粘着トラップ」までを一台の体で生み出す。何百万年もの進化が磨き上げた、精密な設計技術だ。
液体が「引っぱるだけ」で糸になる紡糸の妙


クモの糸づくりで、人間の技術がとりわけ真似できないのが「紡糸」の工程だ。クモの糸腺の中では、スパイドロインは濃度約50%のドロドロした液体として蓄えられている。この段階では、タンパク質はまだ柔らかいらせん状で、固まってはいない。
ところが、この液体が細い管を通って外へ出る間に、魔法のような変化が起きる。管の中で酸性度がわずかに高まり(中性から弱酸性へ)、同時に水分が抜かれ、引っぱる力が加わる。すると柔らかかったタンパク質が一斉に硬いβシートへと姿を変え、瞬時に固い糸になる。高温も、強い薬品も、高い圧力も使わない。常温常圧で、ただ引き出すだけで高性能繊維ができあがるのだ。工場でケブラーを作るには高温や濃硫酸が要ることを思えば、クモの省エネぶりは驚異的というほかない。この一点だけでも、人工クモ糸の量産がなぜ難しいかがよくわかる。
世界最強の糸を張る「ダーウィンの樹皮グモ」


数あるクモの中でも、群を抜いた糸を作るのがダーウィンズバークスパイダー(ダーウィンの樹皮グモ)だ。マダガスカルにすむこのクモの糸は、その靭性が最大で1立方メートルあたり520メガジュールにも達する。これはこれまで知られているあらゆる生物由来の材料の中で最強で、ケブラーの約10倍にあたる。
この強靭さには、ちゃんと理由がある。この樹皮グモは、川をまたいで巣を張る。ときに川幅いっぱい、最長25メートルもの「橋糸」を渡し、水面の上に最大で畳数枚分もの巨大な網を広げる。川を渡る虫を狙うこの独特な暮らしが、切れない糸を進化させたのだ。生きる場所が、材料の性能を極限まで押し上げた好例といえる。



そんなにすごいなら、人間もクモの糸を量産すればいいのに! なんで服とかになってないの?
それがね、夢の繊維ほど作るのが難しいんだ。クモを真似ようと世界中が挑んで、うまくいった部分と、つまずいた部分がある。そのリアルを見てみよう。
人工クモ糸は、どこまで来たのか


クモの糸の秘密が分かるにつれ、人工的に作る研究も加速した。基本のアイデアはこうだ。クモのスパイドロイン遺伝子を大腸菌や酵母に組み込み、微生物にタンパク質を大量生産させる。それを回収し、溶かして細いノズルから押し出して糸にする。
だが、これが一筋縄ではいかない。スパイドロインは巨大で反復の多いタンパク質のため、微生物にうまく作らせるのが難しい。さらに、クモが体内でやってのける「pHの変化とわずかな力だけで、常温常圧で固める」という紡糸の妙を、人工的に再現するのが至難なのだ。熱も強い薬品も使わずに高性能の繊維をつくるクモの技は、いまだ人類の手に余る。
それでも前進はある。日本のスパイバー社は、微生物発酵でつくる構造タンパク質素材「ブリュード・プロテイン」を開発し、2019年には有名アウトドアブランドと組んで、この素材を使ったジャケットを世界で初めて世に出した。一方で、かつて注目を集めたアメリカの合成クモ糸企業ボルト・スレッズ社は、量産の壁を越えられず事実上事業を終えている。むしろ実用化が先に進んでいるのは、丈夫な繊維よりも、生体になじみやすい性質を生かした化粧品や医療用のコーティングといった、地味だが確実な出口だ。「夢の繊維」は、意外な場所で静かに芽を出し始めている。
それでも、この素材への期待は大きい。石油に頼らず微生物から作れて、しかも自然界で分解される——環境負荷の小さい次世代素材として、繊維はもちろん、切っても体になじむ医療用の縫合糸、傷ついた神経を再生させる足場、さらには防弾素材の候補としても研究が進む。クモの糸の設計思想は、私たちの暮らしを支える材料の未来図を、静かに描き替えつつあるのだ。
弱いはずの水素結合が、小さくまとまることで鋼鉄を超える。最強ではなく最タフであることを選び、用途ごとに糸を織り分ける。クモの糸は、自然が何百万年もかけて磨き上げた、驚くほど賢い材料だ。その設計図を少しずつ読み解きながら、私たちはまだ、この小さな職人の足元にも及ばない。だからこそ、クモの糸は今も科学者たちを惹きつけてやまないのだ。
参考文献
Keten S, Xu Z, Ihle B, Buehler MJ. 『Nanoconfinement controls stiffness, strength and mechanical toughness of β-sheet crystals in silk』 Nature Materials 9, 359-367, 2010. DOI: 10.1038/nmat2704
Agnarsson I, Kuntner M, Blackledge TA. 『Bioprospecting Finds the Toughest Biological Material』 PLOS ONE, 2010. DOI: 10.1371/journal.pone.0011234










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