はかせ、ステンレスって錆びない金属だよね? 海水でも平気なの?
いい質問ですね。実は普通のステンレスは海水に強い電気を流すと壊れてしまうんです。でも香港大学が、研究者自身も『説明できない』という二重防御の新ステンレスを作ったんですよ
香港大学の研究チームが、海水を電気分解して水素を作るための新しいステンレス鋼を発表した。研究者自身が「現在の腐食科学では説明できない」と語る奇妙な現象が、グリーン水素のコスト問題を塗り替える可能性を持っている。これまで常識とされてきた「マンガンは鋼を錆びやすくする」という前提を、真っ向からくつがえす発見だ。
なぜ普通のステンレスは「海水水素」で壊れるのか


クロム酸化膜という見えない盾
ステンレス鋼が錆びにくいのは、表面にクロム(Cr)が作る薄い保護膜のおかげだ。クロムが空気中の酸素と結びつくと、わずか数ナノメートルの酸化クロム(Cr2O3)の膜が金属を覆う。
この膜は傷ついてもすぐ自分で再生する。傷を擦ったそばから新しいバリアが立ち上がる、自己修復する透明な鎧のようなものだ。だからキッチンのシンクから橋梁、医療器具まで、ステンレスは100年以上にわたって「錆びない金属」として現代社会を支えてきた。
不働態膜と呼ばれるこの仕組みのおかげで、ステンレスは水道水や雨ぐらいなら何十年も平気で耐える。クロムが一定割合を超えれば「ステンレス」と呼べる、というのが冶金の教科書に書かれた基本だった。裏を返せば、ステンレスの耐食性はこれまで「クロムがどれだけ良い膜を作るか」でほぼ語られてきた。今回の発見が常識破りなのは、そのクロム以外の元素が主役になった点にある。
1000mVの壁、水素生産には1600mVが要る
ところが海水を電気分解して水素を作ろうとすると、話が一気に変わる。水を酸素と水素に分解するには、飽和カロメル電極基準で約1600mVもの高い電圧がかかる。
普通のステンレスの保護膜は、その大きく手前である約1000mVで崩壊する。酸化クロムがさらに酸化されて、水に溶けてしまう6価クロム(Cr(VI))に変わるのだ。これを過不働態腐食と呼ぶ。
塩素イオンを大量に含む海水では、劣化はさらに加速する。針で刺したような孔が連続して開くピッティング腐食が広がり、電解槽の部品はあっという間にボロボロになる。これまで海洋環境用に磨かれてきた254SMOという超高級ステンレスでさえ、この電圧域では太刀打ちできなかった。
コストの壁を作るチタンと貴金属
チタンに頼らざるをえない現場
そのため、現在の水素生産装置ではチタンに金や白金をコーティングした部品が使われている。腐食には強いが、価格は途方もない。チタンそのものが高価なうえ、表面を金や白金でおおうとなれば、コストはさらに跳ね上がる。
香港大の試算によると、10メガワット級のPEM電解槽システムの総コストは約1780万香港ドル。そのうち構造部材だけで53%を占める。海水という「無限の燃料」があっても、装置代で挫折してしまうのが現状だ。
大規模な海上風力と組み合わせて、洋上で水素を作る計画も世界各地で動いている。しかし、装置の心臓部をチタンと貴金属で固めているかぎり、コストの天井は破れない。電解槽の電極や構造材を、もっと安く、もっとタフな金属に置き換えること。それが海水水素の最大の宿題だった。
香港大が掴んだ「マンガンの裏切り」


常識に反する現象を追いかけた研究チーム
香港大学機械工学科のMingxin Huang教授が率いる「Super Steelプロジェクト」は、長年、極限環境で生き残るステンレスを追いかけてきた。2017年と2020年には超高強度・超高靭性のSuper Steelを、2021年には抗ウイルス性能を持つステンレスを発表している。
そのチームのKaiping Yu博士(論文第一著者)は、奇妙な現象に気づく。マンガンを多めに含むある組成の合金が、本来なら絶対に耐えられないはずの高電圧でも腐食しなかったのだ。
「最初は信じませんでした。腐食科学の常識では、マンガンはむしろステンレスの耐食性を弱めると考えられてきたからです」とYu博士は振り返る。チームは何度も自分たちの目を疑い、原子レベルの追試と分析を繰り返した末に、ようやくこの現象を事実として受け入れた。常識に反する結果ほど、確かめるのに慎重な検証が必要になるからだ。
二段構えの盾が生まれるメカニズム
720mVから現れる第2のシールド
新合金SS-H2の秘密は、逐次的二重不働態化(sequential dual-passivation)と呼ばれる戦略にある。電圧を低い側から上げていくと、まず通常通り酸化クロムの第1層が現れる。この第1層は、一般的なステンレスが持つのと同じ、おなじみのクロム酸化膜だ。
そして電圧が約720mVに達したところで、その上にマンガン系の第2層がスッと立ち上がる。1階建てだった盾が、いきなり2階建てに増築されるイメージだ。
面白いのは、この2層が一度に作られるのではなく、電圧の段階に応じて順番に育つ点にある。1層目が機能する電圧帯では1層目だけで守り、2層目の出番が来てから初めて新しい膜が組み上がる。アトムプローブや高分解能の電子顕微鏡で観察された原子配列レベルのデータが、この「逐次型」の仕組みを裏付けた。
1700mVまで耐える二段構え
驚くべきはこの2層目の頑丈さだ。塩素イオンが暴れまわる環境でも、この二段構えのバリアは1700mVという超高電圧まで持ちこたえる。水を分解するのに必要な1600mVを、余裕で上回る数字だ。
「マンガンによる不働態化は、現在の腐食科学では説明できない反直観的な発見です。早くこのメカニズムを応用したい」とYu博士は語る。チタンを使わなくても、ステンレスのままで電解槽の心臓部を作れる目算が立ったことになる。
論文は2023年のMaterials Today誌(Vol.70)に「A sequential dual-passivation strategy for designing stainless steel used above water oxidation」というタイトルで掲載された。腐食科学の世界では、自然な状態での耐食性ばかりが注目されてきたが、Huang教授らは「高電位でこそ生き残る合金」という別の戦場を切り拓いたことになる。
水素のコストが約40分の1に? 実用化への道


チタンと貴金属を置き換える経済性
SS-H2は塩水電解槽の中で、現行のチタン系構造材と同等の性能を出せることが確認されている。違いは値段だ。チタンと金・白金で固められた部品から、ステンレスの板や線材に置き換わるだけで、コストの構造が一気に組み替わる。
香港大の試算では、SS-H2で構造部材を置き換えると、構造材料のコストが約40分の1に下がるという。1780万香港ドルの電解槽のうち、半分以上を占めていた構造費が大幅に圧縮される計算だ。金を金属プレートに使うような豪華な世界から、鉄の塊で電解槽を組む現実的な世界へ。製品設計の自由度も広がる。
コストが下がる意味は、単に一台の電解槽が安くなる、というだけではない。水素は将来のエネルギーの主役候補と目されているが、大量に、しかも安く作れなければ普及は進まない。構造材のコストが劇的に下がれば、これまで採算が合わずに見送られてきた洋上の大規模プラント計画にも、現実味が出てくる。素材ひとつの進歩が、エネルギー全体の絵図を書き換える可能性を秘めているのだ。
量産に向けた最初の一歩
この成果は、研究室のフラスコの中だけの話にとどまらない。すでに中国本土の工場と組み、SS-H2のワイヤの生産が始まっているという。ただし、これはあくまで量産の実証に向けた初期段階であり、あらゆる電解槽が明日から置き換わるという話ではない。
知的財産の面では、複数国で特許申請が行われ、うち2件はすでに登録済みだ。次のフェーズは、電解槽用のメッシュやフォーム(多孔体)といった、より複雑な形状の部品を安定して作れるようにすることだ。電気と水の通り道を確保するため、電解槽の内部では細かなスポンジ状の金属部品が大量に使われる。研究室の小さなサンプルを工業製品に育てる、地味だが重要な工程が、ようやく走り始めた段階といえる。
残された実用化の壁
もちろん、いきなり全ての電解槽がSS-H2に置き換わるわけではない。長期耐久性の検証、塩素の副反応の制御、触媒層との相性など、越えるべき山はまだ多く残っている。数分から数時間の実験で耐えることと、何年も現場で使い続けて耐えることのあいだには、大きな隔たりがあるからだ。実験室で示された性能が、そのまま実機で再現されるとは限らない。温度の変動、不純物、機械的な振動など、現場には研究室にはない厳しさがいくつも待ち構えている。
海水電解の分野では一般に、寿命や腐食、塩素の副反応、金属析出物の制御といった課題が繰り返し指摘されてきた。こうした課題に対しては、ステンレスの上にニッケル鉄系のコーティングなどを載せて寿命を伸ばす研究も各所で進められており、SS-H2はその下地となる素材としても期待される。とはいえ、これらの周辺技術との組み合わせが実際にどこまで有効かは、今後の検証を待つ必要がある。
それでも、「マンガンが鋼を守る」という設計思想は、ステンレス開発の方向そのものを変える力を持つ。クロム一辺倒だった不働態化の世界に、新しい主役が加わったのだ。安価な海水と再生可能電力から、安価な鋼の電解槽で水素を取り出す。そんな未来図が、今までより一歩だけ現実に近づいた。筆者としては、こうした「常識をくつがえす基礎発見」が、着実に工業製品へと育っていく過程を、腰を据えて見守っていきたいと考えている。派手な見出しに一喜一憂するのではなく、基礎から量産までの長い階段を、一段ずつ確かめながら登っていく――そのプロセスにこそ、本物の技術革新の姿があるはずだ。
えー! 錆びさせる元素だと思われてたマンガンが、逆に守ってくれるなんてびっくり!
科学の常識って、ときどきこうしてひっくり返るんですよ。海水と太陽光で水素が安く作れる時代も、案外そう遠くないかもしれませんね
クロム一辺倒だった不働態化の世界に、マンガンという意外な主役が加わった。まだ実用化前の基礎研究とはいえ、常識を疑う姿勢が新しい材料を生む――そんな科学の醍醐味が詰まった発見だ。海水水素の未来がどう動いていくのか、続報を楽しみに待ちたい。
参考文献:
Yu K, et al. (2023) 「A sequential dual-passivation strategy for designing stainless steel used above water oxidation」 Materials Today, Vol.70, pp.8-16. DOI: 10.1016/j.mattod.2023.07.022
HKU Engineering ‘Super Steel’ team develops New Ultra Stainless Steel for Hydrogen Production(The University of Hong Kong)










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