クモの糸は鋼鉄より強いと言われる。総説は、牽引糸の強さを鋼鉄の5倍と紹介している。この記事では、強さそのものより、切れるまでにエネルギーを吸収する粘り強さ(靭性)に注目する。
糸の硬い部分を支えるβシートの結晶では、シート同士を水素結合が結びつけている。
MITのチームの分子シミュレーションは、この結晶が数ナノメートルの大きさにとどまると、弱い結合でも強度と靭性が高まることを示した。
強さではなく靭性に注目する

クモが命綱として使う「牽引糸」は、高い引っ張り強度と伸びやすさを兼ね備え、切れるまでに大量のエネルギーを吸収できる。
靭性(じんせい)とは、切れるまでにどれだけ大きなエネルギーを吸収できるかという粘り強さのことだ。論文によると、牽引糸の靭性は約150MJ/m3で、ケブラー(33MJ/m3)を上回る。
クモの糸の強みは、この靭性にある。
強さと伸びを兼ね備えた牽引糸
総説の比較表では、牽引糸は切れるまでに約35%伸びる。ケブラー49は約5%だ。
強さと伸びやすさは、合成高分子ではふつう両立しにくい。論文は、牽引糸がこの二つを併せ持つため、靭性でケブラーを約300%上回ると述べている。
結晶と非結晶が交互に並ぶタンパク質

クモの糸の主成分は、スパイドロインと呼ばれるタンパク質だ。長い鎖の中で、結晶になりやすい配列(アラニンの連なりなど)と、結晶になりにくい配列が交互に並ぶ。
アラニンの連なりは、逆平行のβシートを重ねた小さな結晶(ナノ結晶)をつくる。このβシートのナノ結晶が、糸の強さの源だと論文は述べる。
結晶のまわりは、グリシンに富む非結晶の相がつないでいる。
弱い水素結合でも、結晶が小さいと強くなる
βシートの結晶の中で、シート同士を結びつけているのは水素結合だ。Keten論文の抄録は、水素結合を「知られている化学結合の中で最も弱いものの一つ」とし、これを直感に反する点として挙げている。
この問いに取り組んだのが、MITのケテン氏、ブーラー氏らのチームだ。
大規模な分子動力学シミュレーションで、数ナノメートルに閉じ込められたβシートの結晶は、より大きな結晶よりも剛性、強度、靭性が高いことを示した。
これは計算機上の結果である。
小さく閉じ込められた結晶では、せん断の変形が均一に起き、水素結合が最も効率よく使われる。さらに、分子がずれては付き直す「スティック・スリップ」という変形が起き、エネルギーを散逸させる。
論文はこの二つが性質の向上につながると説明している。
つまり、結晶を数ナノメートルに保つことが、弱い結合を生かす条件になる。論文は、この知見が、弱い水素結合に頼りながら優れた性質をもつ人工素材の設計に使えると述べている。
キクシミュレーションでは、クモの糸の中の結晶が数ナノメートルと小さいと、弱い水素結合でも強くてタフになるのか。
クモは用途ごとに糸を作り分ける


ここまで牽引糸を中心に見てきたが、クモは一種類の糸だけを作っているわけではない。総説によると、1匹のクモは最大7種類の糸を作り、糸ごとに力学的な性質が違う。
牽引糸は網の外枠や放射状の糸に使われ、渦巻き状の捕獲糸は別の腺でつくられる。
総説によると、捕獲用の渦巻き糸の伸びやすさは最大500%に達する。
糸になるときにはpHが下がる
クモの糸腺の中で、スパイドロインは液滴の状態で蓄えられ、必要なときに素早く繊維に変わる。
この変換には、酸性化、せん断力、リン酸や重炭酸イオンの濃度変化が関わる。ただし、クモの腺の中の実際のイオン濃度は、完全には分かっていない。
最もタフな糸を張るダーウィンズバークスパイダー


ダーウィンズバークスパイダー(ダーウィンの樹皮グモ)について、論文はその牽引糸を、知られている中で最もタフな生物材料としている。
ただし論文は、さらに優れたクモの糸が未発見である可能性が高いとも述べている。
マダガスカルにすむこのクモから引き出した糸の靭性は、平均で1立方メートルあたり350メガジュール、最大で520メガジュールに達した。
論文は、これまで知られたどのクモの糸より2倍以上タフで、ケブラーの10倍を超えるとしている。
この糸の強度は高いが飛び抜けてはおらず、靭性が高い主な理由は伸びやすさだ。伸びやすさは、他の円網グモの牽引糸のおよそ2倍にあたる。
論文は、この靭性が、川や湖の上に巨大な網を張る生態と合わせて進化したという仮説を立てている。
円網は最大2.8平方メートルで、岸どうしをつなぐ橋糸は最長25メートルに達した。25メートルの例は、川ではなく湖を渡る橋糸の観察だ。
ただし、野外で最も多く観察された獲物はハチや小型のトンボなどで、論文の観察は、大きな獲物を捕らえるために進化したという説明を直接は裏づけていない。





クモの糸がこんなにタフなら、人の手で作ることはできないのかな?
人工クモ糸は、どこまで来たのか
クモのスパイドロイン遺伝子を、大腸菌や酵母などの宿主に組み込んでタンパク質をつくらせる方法が研究されている。
ただ、スパイドロインは分子量が大きく、グリシンとアラニンに富む長い反復配列をもつため、つくらせるのは難しい。大腸菌は培養が安価だが、大きなスパイドロインを効率よくつくることは得意でない。
クモの糸は生体適合性や生分解性をもつため、末梢神経の再生を助ける足場などへの応用が研究されている。
一方、総説によると、絹(シルク)の臨床応用で中心になっているのは縫合糸で、それ以外の医療用途は限られている。
参考文献
Keten S, Xu Z, Ihle B, Buehler MJ. 『Nanoconfinement controls stiffness, strength and mechanical toughness of β-sheet crystals in silk』 Nature Materials 9, 359-367, 2010. DOI: 10.1038/nmat2704
Agnarsson I, Kuntner M, Blackledge TA. 『Bioprospecting Finds the Toughest Biological Material』 PLOS ONE, 2010. DOI: 10.1371/journal.pone.0011234
Agnarsson らの論文の全文: PMC2939878
Keten らの論文の抄録: PubMed 20228820









