蚊と聞くと、血を吸うメスを思い浮かべる人が多いでしょう。けれども蚊が子孫を残せるかどうかは、オスがメスの羽音を聞き分けられるかにかかっています。
これまでに知られているように、蚊のオスは日が暮れるころに群れを作り、近づいてきたメスの羽音を頼りに相手を見つけます。メスのほうは、オスの羽音に寄っていきません。この違いは約100年前から知られていましたが、それを生む遺伝子は分かっていませんでした。
名古屋大学の上川内あづさ教授、マシュー・スー助教らのグループは、米国アイオワ大学と共同でこの問いに取り組みました。調べたのは、デング熱などを運ぶネッタイシマカです。遺伝子fruitless(フルートレス)のオス型が働かないようにしたオスは、メスの羽音に寄らなくなりました。その原因の一つは、オスの耳の働きが大きく損なわれたことにあると考えられています。
論文は、2026年10月28日(日本時間)付で学術誌『PLOS Biology』に掲載されました。
オスだけがメスの羽音を追いかける
蚊の耳は、頭から伸びる触角にあります。触角の根もとにあるジョンストン器官と、そこから長く伸びる部分でできています。
音が届くと、触角は私たちの鼓膜のように揺れます。その揺れをジョンストン器官の中の神経細胞が受け取り、脳へ送る信号に変えるしくみです。
これまでの研究で、蚊の耳にはもう一つ変わった点があると分かっています。脳から耳へ向かう神経が来ていて、耳の働きを調節しているのです。発表文によると、これはほかの昆虫には無い特徴で、むしろ背骨のある動物の耳に近いといいます。
行動の性差を生む遺伝子として知られているのが、fruitlessです。この遺伝子は性そのものを決めるわけではありません。神経をオス型にすることで、オスとメスの行動の違いを生みます。オスとメスで遺伝子の読まれ方が変わるため、働くたんぱく質のFruMはオスでしか作られません。
2020年に学術誌『eLife』で発表された別の研究では、ネッタイシマカでfruitlessを壊した蚊が作られました。そのオスは交尾ができず、ふつうのオスなら決して見せない「生きた人に強く引き寄せられる」行動まで見せました。ただ、なぜ交尾に失敗するのかは分かっていませんでした。
夕暮れに中央へ集まらず、どの音にも寄らない
研究チームが調べたのは、羽化して5〜7日たった交尾前の蚊です。オス型のFruMを作れないオスを用意し、ふつうのオスやメスと比べました。ここからは、このオスを変異オスと書きます。
まず、30匹ずつ入れたケージを、明かりが消える前の30分間撮影しました。ふつうのオスはケージの真ん中あたりを飛び、メスと変異オスは壁ぎわを飛ぶことが多かったのです。
ケージの中央にマイクを置き、その前を通る回数も数えています。変異オスの回数はふつうのオスより少なく、メスと同じくらいでした。それでも羽ばたきの速さ、つまり羽音の高さは、ふつうのオスと変わりませんでした。
次は、音に寄るかどうかの実験です。一辺30cmのケージにオスを30匹入れました。横に置いたスピーカーから350〜850Hzの音を25Hzきざみで流します。1つの音を1分間流したら、次の1分間は音を止めました。音が鳴っている間に、スピーカーのすぐ横の網にとまったオスの数を人が数えています。
ふつうのオスと、壊れた遺伝子を片方だけ持つオスは、特定の高さの音に強く寄ってきました。発表文によると、メスの羽音にあたる400〜500Hz付近の音です。ところが変異オスは、試したどの音にも寄りませんでした。
オスは、音を聞くとおなかを曲げる反応も見せます。メスの羽音の平均と見積もられた470Hzなどの音を聞かせても、この反応が出たのはふつうのオスだけでした。
キク羽音の高さは同じなのに、どうしてメスの音に寄れなくなったんだろう?
耳のチューニングがメスの羽音からずれていた
研究チームはまず、耳でfruitlessが働いているかを確かめました。目印の蛍光たんぱく質で調べると、オスのジョンストン器官の神経細胞で、fruitlessが広く強く働いていました。
蚊のオスの耳は、音を待っているだけではありません。これまでの研究で、耳の神経細胞が自分から触角を揺らし、いちばん感じやすい音の高さを調節していることが分かっています。ふつうのオスは、この感度のピークをメスの羽音の高さに合わせています。
そこで使ったのがレーザードップラー振動計です。レーザーの反射を使って、小さな物の揺れを触れずに測る装置です。触角の先にレーザーを当てて、揺れの速さを記録しました。
雑音を聞かせて調べると、変異オスの耳がいちばんよく揺れる音の高さは、ふつうのオスより高い側にずれていました。この差は統計的に意味のあるものでした。変異オスの耳が合わせる高さは、メスの羽ばたきの高さとほとんど重なっていませんでした。
では、耳の形そのものが変わってしまったのでしょうか。二酸化炭素で眠らせて、神経細胞が自分から揺らす働きを止めると、ふつうのオスと変異オスの耳の揺れやすさに差はありませんでした。ジョンストン器官の幅にも差は無く、耳の神経細胞の数も同じくらいとみられます。ずれの原因は耳の形ではなく、神経細胞の働きのほうにあったわけです。
神経の電気の反応も測っています。電気の反応がいちばん大きくなる音の高さも、変異オスはふつうのオスより高く、統計的に意味のある差がありました。同じ強さの音を聞かせると、変異オスの聴覚の神経の反応は、ふつうのオスの約6分の1にとどまりました。
一方で、触角をじわっと押し曲げたときの神経の反応は、変異オスとふつうのオスで同じくらいでした。音で揺らしたときの反応は弱まっていても、ゆっくり押し曲げたときの反応は保たれていたわけです。



耳の形はそのままなのに、合わせる音の高さがずれて、音への反応も弱まってたんだね!
音を大きく増幅する揺れが起きない
これまでの研究で、オスの耳にだけ起きる特別な揺れが知られています。自励振動と呼ばれる触角の大きな揺れで、メスの羽音をふだんの数百〜数千倍に増幅したような状態です。
これまでに知られているところでは、この揺れはふだん、脳から耳へ来る神経に抑えられています。破傷風毒素を注射してこの神経の信号を止めると、オスでだけ自励振動が始まることも分かっていました。
研究チームは、2通りの方法でこの揺れを起こそうとしました。1つは破傷風毒素で抑えを外す方法で、もう1つは耳の神経細胞を直接働かせる物質(cAMP)を注射する方法です。どちらの方法でも、自励振動が起きたのはふつうのオスだけで、変異オスでは起きませんでした。
耳の中の配線にも違いがありました。脳から耳へ来る神経の末端を染めて見ると、変異オスではオスに特有の末端が減ったり、見当たらなかったりしました。代わりに、メスに特有の末端が現れていたのです。発表文は、増幅を調節する神経のつながり方の一部がメス型に変わっていたと説明しています。



じゃあ、耳の中ではどんな遺伝子の働きが変わってたのかな?
メス型の遺伝子にブレーキをかけるFruM
研究チームは、耳のある触角の根もとで働いている遺伝子をまとめて調べました。ふつうのオスと比べると、変異オスでは1,252個の遺伝子の働きが強まり、994個が弱まっていました。
そこから、変異オスとメスの両方で強まっている遺伝子を探すと、142個ありました。その中にあったのが、ダイニンという分子モーターの遺伝子の1つ、Dlc90Fです。耳の神経細胞では、メスに強く偏って働く遺伝子です。発表文によると、ダイニンは耳の神経細胞が揺れを生み出すときに働くと考えられている分子です。
逆に、ふつうのオスでだけ強く働く遺伝子も175個見つかりました。働きが変わった遺伝子にはダイニンの遺伝子が複数あり、耳の増幅の働きが損なわれたこととよく合っていたと発表文は伝えています。
FruMがDlc90Fを直接おさえているのかも調べました。使ったのはゲルシフト解析で、たんぱく質とDNAを試験管の中で混ぜ、DNAの動く速さの変化から結びつきを見る方法です。FruMのDNAに結びつく部分は、Dlc90Fの働きを調節する領域の2か所に結合しました。その部分を取り除いたFruMでは、結合は見られませんでした。
論文は、FruMがDlc90Fに直接結びついて働きを調節しているかもしれない、という仮説を支える結果だとしています。発表文は、FruMがメス型の遺伝子を直接おさえ、オス型の遺伝子は間接的に高めていることが示唆されたと述べています。
耳だけで説明できるのか、蚊の対策につながるのか


この研究にも、まだ分からない点があります。論文によると、変異オスの耳にも自分から揺れて聞く働きの名残があり、耳が聞こえないわけではありません。音に寄らなくなった理由には、脳で音を処理する段階でのFruMの働きも関わっているかもしれないと論文は書いています。
オスがケージの中央を飛ぶ飛び方に、どの感覚が関わっているのかも分かっていません。耳の中の神経の末端をオスとメスでどう作り分けるのかも、今回は分かりませんでした。発表文は、FruMが直接おさえる遺伝子の確認や、体が育つ途中での働き方の解明を今後の課題に挙げています。
比べる相手としてよく出てくるのが、ショウジョウバエです。これまでの研究で、ショウジョウバエの触角の耳には、形にも働きにもオスとメスの差が無いことが知られています。耳の神経細胞でのfruitlessの働きも、別の研究ではまばらだと報告されています。
今回の研究では、蚊の耳の神経細胞でfruitlessが強く働いていました。論文はこの違いを、進化の中でfruitlessの役割が分かれてきたしるしだとみています。これまでに知られているところでは、蚊とショウジョウバエは約2億5千万年前に分かれました。発表文は、そのあとでfruitlessが耳で新しい役割を担うようになったと考えています。
WHOによると、デング熱は、ネッタイシマカなどのヤブカの仲間が運ぶウイルスの感染症で最も多いものです。毎年、推定9600万人が発症し、推定4万人が亡くなっています。
発表文は、交尾にはオスがメスの羽音を聞き分けることが欠かせないとしています。そのため、fruitlessやその下流の遺伝子を狙えば、蚊の繁殖そのものを妨げられる可能性があるといいます。今回の論文の著者の一人、スー助教も加わった2023年の別の研究(学術誌『Nature Communications』)でも、マラリアを運ぶハマダラカの聴覚に関わるオクトパミンという物質が、蚊の防除の新しい標的になりうると報告されていました。
発表文がとりわけ重要だとしているのは、fruitlessが脳だけでなく、耳そのものの性能を決めていると示した点です。蚊の対策というと、刺してくるメスをどう遠ざけるかに目が向きがちです。人を刺さないオスの「聞く力」の側から繁殖を考えるという見方は、新鮮に感じます。
参考文献:
一次ソース: Loh YM, Thornton AJ, et al., fruitless is essential for male Aedes aegypti mosquito attraction to female flight sounds(PLOS Biology, 2026)DOI:10.1371/journal.pbio.3004041
研究機関: 名古屋大学・米国アイオワ大学 / 名古屋大学・JST 共同発表「蚊のオスが「メスの羽音」に惹かれる理由を解明」(2026年10月28日)
別の研究: Basrur NS, et al., Fruitless mutant male mosquitoes gain attraction to human odor(eLife, 2020)DOI:10.7554/elife.63982
別の研究: Georgiades M, et al., Hearing of malaria mosquitoes is modulated by a beta-adrenergic-like octopamine receptor which serves as insecticide target(Nature Communications, 2023)DOI:10.1038/s41467-023-40029-y
基礎知識: WHO「Vector-borne diseases」










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