暗く冷たい大西洋の深海に、全長およそ500キロメートルにおよぶ巨大な谷が横たわっている。その名はキングス・トラフ。
ポルトガルの西の沖およそ1000キロ、アゾレス諸島の北北東およそ700キロにあるこの谷は、「大西洋のグランドキャニオン」とも呼ばれる。
だが、その正体はアメリカの名峡谷とはまったく異なる。川が削ったのではない。地球の内部の力が、海底を引き裂いてつくったものなのだ。
そして最新の研究は、この谷が「なぜできて、なぜ途中で止まったのか」という長年の謎に、新しい答えを示した。ドイツのGEOMAR海洋研究所などのチームが、2025年に発表した成果だ。
キク海の底が引き裂かれるって、そもそも海底はどうやって動いてるんだろう?
そもそも、海底はなぜ動くのか
キングス・トラフの謎を解くには、まず「地球の表面は動いている」という大前提を押さえておく必要がある。地球の表面は、いくつもの巨大な岩の板「プレート」で覆われている。
大西洋の真ん中には、プレートが左右に離れていく大西洋中央海嶺が南北に走っている。海嶺の両側で、プレートは合わせて1年に平均2.5センチほどずつ開いていく。
キングス・トラフは、この海嶺から東へおよそ300キロの場所にある。
プレートとプレートの境目では、さまざまなことが起きる。両者が離れていく場所では新しい大地が生まれ、ぶつかる場所では山脈ができたり片方が沈み込んだりする。
ここで大事なのは、この境界線そのものが、地質学的な時間の中では「引っ越し」をするということだ。境界は地図に描かれた固定の線ではなく、地殻の弱いところを選んで移動していく。
実はキングス・トラフの物語は、まさにこの「境界の引っ越し」が主役なのだ。
地面が引き裂かれる「リフト」という現象
では、海底が「引き裂かれる」とは具体的にどういうことか。プレートが両側に引っ張られると、地殻はまず薄く伸びていく。
伸びきった地殻はあちこちで断層に沿って割れ、中央部分がずるずると沈み込んでいく。
こうしてできる細長い溝を「リフト(地溝)」と呼ぶ。
キングス・トラフも、こうしたリフトの一種として生まれた。論文はこれを、海洋地殻のなかにできた地溝で、ななめ方向に引っ張られてできた構造と位置づけている。
谷は長さおよそ500キロ、幅は最大で約80キロある。
ミステリー — なぜ谷は「成長を止めた」のか
ここで、この谷の最大の謎が浮かび上がる。多くのリフトは、成長を続ければやがて新しい海になる。ところがキングス・トラフは、途中でぱたりと活動を止めてしまったのだ。
海になりそこねた、いわば「未完成の裂け目」である。なぜ止まったのか。
論文によれば、この海域で起きた引っ張りは、海をつくる新しい境目(拡大軸)に育つほどの速さも長さもなかった。
そして今回のGEOMARの研究は、キングス・トラフが止まった理由に、これまでとは違う新しい答えを出した。
この谷を引き裂いていたプレート境界が、2700万〜2000万年前のあいだに、いまのアゾレス・ジブラルタル断層帯のある南の位置へ移ったというのだ。
つまり谷が「失敗した」というより、地殻を引き裂く力の担い手である境界そのものが南へ移ってしまい、キングス・トラフは置き去りにされた。
いまのアゾレス地域では、同じようなリフトのテルセイラ・リフトが現在進行形で形成されている。ここも、海洋地殻が異常に厚くなった場所だ。
GEOMARの発表は、これがキングス・トラフと似た過程だとみている。



キングス・トラフは失敗したんじゃなくて、谷を引き裂いてたプレートの境目が南へ移って、取り残されたんだね。
もう一つの要因は、アゾレス・プルームの初期の枝だった


だが、話はプレート境界の移動だけでは終わらない。論文は、この海域のもとにマントルプルームがあったと考えている。
マントルプルームとは、地球の深部から高温の岩石が長いあいだ立ちのぼりつづける流れをいう。GEOMARの発表も、同じ定義で説明している。
この海域では、プルームの影響で海洋地殻が通常より厚くなり、周囲より高い台地ができていた。台地の平均水深は約3000メートルで、キングス・トラフはその台地に切りこむように走っている。
論文は、約5300万年前からアゾレス・プルームの初期の枝が大西洋中央海嶺とかかわりあい、この一帯の地殻を厚くしたと考えている。
共著者の海洋地質学者ヨルク・ゲルトマッハー氏は、厚く熱せられたこの地殻が力学的に弱く、プレート境界がここへ移りやすかったのかもしれない、と説明している。
一方、谷の東端でもっとも大きく引き伸ばされたピーク海淵とフリーン海淵(深さ最大約6000メートル)は、プルームの影響を受けた厚い地殻の外にある。
ここで採れた溶岩は、ふつうの上部マントルが溶けてできたと考えられる成分をもっていた。


プレート境界が通っていた「3700万〜2400万年前」


論文は、この谷が開いていた時期を、およそ3700万年前から2400万年前と見積もっている。恐竜が滅んだあとの、比較的新しい時代だった。
この数字の手がかりの一つは、谷の周りの海底がもつ磁気の縞模様だ。縞模様から海底の年代がわかり、谷の東端の海底は約6000万年前、谷が終わる西端の海底は約2600万年前にできている。
谷が開いたのは、その間のどこかになる。
そこにプレート運動の復元が重なる。境界がこの海域へ移ったのは約3700万年前、いまの南の位置へ移って谷の開きが止まったのは2700万〜2400万年前ごろとされる。
岩石の年代測定も行われた。2020年にメテオール号がチェーンバッグ式の採泥器で海底から集めた溶岩のうち、ピーク海淵のものは約3600万年前、パーマー海嶺のものは約3950万年前と出た。
測定は放射性元素の一つ、アルゴンの同位体を使う方法で、アメリカのウィスコンシン大学で行われた。
ただし論文は、これらの年代だけでは谷が開き始めた時期は決められず、谷のいちばん深い部分の岩石では年代測定に成功しなかったと書いている。
一方、谷の側面とグニチェビッチ海山の溶岩は、アゾレスの溶岩と似た成分を示し、同じプルームに由来すると考えられている。





光の届かない深海の谷の形って、どうやって調べたんだろう?
見えない海底を「音」で描く技術


そもそも、水深数千メートルの真っ暗な海底の地形を、私たちはどうやって知るのだろう。光の届かない深海では、目で見ることはできない。
そこで活躍するのが音だ。
研究チームが使ったのは、船から海底へ音波を何本も同時に送るマルチビーム音響測深機だ。音が往復する時間から水深がわかり、船が進むにつれて海底の起伏が地図になる。
この地図は、2020年の航海のデータと、2013年にポルトガルの調査船が測ったデータを合わせたもので、谷全体の地形が詳しくわかったのは初めてだという。
年代の手がかりには、これまでに公表されている海底の磁気の地図も使われた。
磁気の縞模様は海嶺に平行に走っていて、海嶺から離れるほど古い。そこから谷の周りの海底の年代がわかる。
グランドキャニオンとは、でき方が正反対


最後に、冒頭の疑問に戻ろう。キングス・トラフとグランドキャニオン、大きいのはどちらだろうか。
グランドキャニオンは長さ約446キロ(277マイル)、深さは平均で約1.2キロ(4000フィート)、いちばん深いところで約1.8キロ(6000フィート)だ。
キングス・トラフは、平行に走る溝と深い盆地が約500キロにわたって連なり、谷底の水深は4200〜4500メートルある。
ただし水深は海面からの深さで、周りの海底からどれだけ落ち込んでいるかとは別の数字だ。
論文によれば、谷のまわりの海底は水深約3500メートルで、いちばん深いピーク海淵は水深約6000メートルに達する。
陸の谷と海の底の谷を、深さだけで単純に比べることはできない。
そして何より違うのは、そのでき方だ。グランドキャニオンは、コロラド川が岩盤を削ってできた谷である。
一方キングス・トラフは、地殻そのものが両側に引き裂かれてできた「破断」だ。
GEOMARの発表は、この谷が引き裂かれる様子を「ジッパーが東から西へ開いていくよう」と表現している。同じ「巨大な谷」でも、その生い立ちはこれほどまでに違う。
参考文献
Dürkefälden A, Geldmacher J, Hauff F, et al. 『Origin of the King’s Trough Complex (North Atlantic): Interplay Between a Transient Plate Boundary and the Early Azores Mantle Plume』 Geochemistry, Geophysics, Geosystems 26(12), 2025. DOI: 10.1029/2025GC012616
論文本文(オープンアクセス): GEOMAR OceanRep
GEOMARによる発表(2026年1月29日): The “Grand Canyon” of the Atlantic









