脳もなく、心臓もなく、一生を岩にへばりついて過ごす。海底にじっとたたずむカイメン(海綿動物)は、一見すると植物か岩の一部のようだ。だが、れっきとした動物である。そしてこの地味な生き物が、地球で最も古い動物の一つだった可能性を、意外な形の証拠が指し示している。
手がかりは、体そのものではない。岩の中に残された、たった一種類の化学物質だ。カリフォルニア大学リバーサイド校のゴードン・ラブ教授らのチームは、約6億5000万年も前の岩石から、カイメンだけが作る「化学の指紋」を検出した。体の化石が一切残っていない時代の海に、確かに動物がいた——その証拠を、探偵のように一つずつ固めていった物語をたどろう。
まず「化学化石」という証拠を知る
体が消えても、分子は残る
ふつう「化石」と聞けば、骨や殻を思い浮かべる。だがカイメンのように軟らかい体の生き物は、たいてい跡形もなく分解されてしまう。ところが、体を作っていたある種の分子だけは、何億年もの時を越えて岩の中に残ることがある。これが「バイオマーカー」、いわば分子の化石だ。
鍵を握るのは、生物の細胞膜を作るステロールという脂質。コレステロールの仲間だと思えばいい。生き物が死んで地層に埋もれると、このステロールは長い年月と地熱・圧力を受けて、ステランというきわめて安定な物質に姿を変える。そしてそのまま、数億年ものあいだ岩の中に閉じ込められる。体は消えても、細胞膜の化学的な痕跡だけが証言者として生き残るのだ。
分子の「枝ぶり」が種を語る
面白いのは、このステロイド分子の形が、生き物のグループごとにかなり違うことだ。中心の骨格から伸びる枝の位置や数が、種によって特徴的なパターンを描く。うまくいけば、この枝ぶりから「誰が作った分子か」を絞り込める。まるで、現場に残された独特の匂いの分子から犯人を特定するようなものだ。
体化石が何も残っていなくても、この化学の指紋さえ見つかれば、そこに特定の生き物がいたと主張できる。カイメン最古説の証拠固めは、まさにこの分子の指紋を武器に進められた。地層という現場に残された、目に見えない痕跡を読み解く捜査である。

骨が残ってなくても、分子で存在がわかるんだ。すごい発想だね!
カイメンとは、どんな動物なのか


動くのをやめた、生きたフィルター
そもそもカイメンとは何者か。動物界のなかでも、かなり変わり者だ。脳も神経も筋肉もなく、一生のほとんどを岩やサンゴに固着して過ごす。体の表面は無数の小さな穴でおおわれ、内側にある特殊な細胞が鞭毛を動かして水流を作り、海水を体内に吸い込む。そこから漂う微小なプランクトンや有機物のかけらを漉し取って食べる、濾過摂食という生き方だ。
その濾過能力はすさまじく、一匹のカイメンが一日に自分の体積の何千倍もの海水を漉すこともある。いわば、生きた海水フィルターだ。動きも器官も持たず、ただ静かに水を漉して暮らす。私たちが「動物らしい」と思う特徴の多くを持たないその姿こそ、動物のごく初期の形をとどめていると考えられている。
指紋の主は「普通海綿類」
カイメンにもいくつかのグループがある。今回の指紋の持ち主は、そのなかで最大勢力の普通海綿類(デモスポンジ)だ。現生のカイメンの8割以上を占めるこのグループは、ガラス質の骨格を持つ仲間や石灰質の骨片を持つ仲間とは、生化学的にも別系統にあたる。
研究チームが目印にしたのは、この普通海綿類だけが作る特殊なステロイドだった。長年にわたる脂質研究のデータベースをさらっても、多様な藻類や他のカイメンからは、この物質の前駆体が報告されていない。つまり、これが岩から見つかれば、普通海綿類がそこにいた強力な証拠になる、というわけである。
証拠固めの難関——藻類という「もう一人の容疑者」


最初の指紋には弱点があった
この捜査には、長い前史がある。ラブ教授らは2009年、24-イソプロピルコレスタンという別のステロイドの化石を、最古の動物の証拠として『Nature』に報告した。だがこの物質には弱点があった。一部の藻類も、ごく微量ながら似た物質を作ることがあったのだ。容疑者はカイメンだけではない、と反論の余地が残ってしまった。
さらに、億年単位の古い岩石は、後の時代の石油やバクテリアで汚染される危険も常につきまとう。「その分子は、本当にその時代の生き物のものか。後から染み込んだのではないか」。こうした疑問に答えないかぎり、最古の動物という主張は揺らいでしまう。捜査は、より確かな決定打を必要としていた。
2018年、決定打の指紋が見つかった
そこで2018年、チームは新たな切り札を示した。26-メチルスチグマスタンというステロイドの化石だ。この物質は、これまで調べられたどの藻類からも、他のカイメンからも見つかっていない。普通海綿類だけが作る、いわば容疑者を一人に絞り込む決定的な指紋だった。24-イソプロピルコレスタンの弱点を、この新しい指紋が補ったのである。
汚染への反論も用意された。これらのステロイドは、岩の中で後から染み込みうる可溶性の部分だけでなく、岩と分かちがたく結びついた不溶性の有機物の中からも検出された。後から染み込んだ物質が、分子レベルで岩に化学結合することはできない。だからこの指紋は、岩と「同時に」埋もれた本物だ——そういう論理である。
容疑者が藻類だけじゃなかったのを、新しい証拠で絞り込んだんだね。
岩石が証言する、約6億5000万年前の海


カンブリア爆発より1億年も前
では、その指紋はいつの岩石から見つかったのか。ここは正確に押さえたい。主な産地は、中東オマーンにある約6億6000万年から6億3500万年前の地層だ。地質時代でいえば、全球が凍りついた大氷河期の直後にあたるクライオジェニアン後期から、エディアカラ紀の最初期にあたる。
この年代の重みは、比較するとよくわかる。多様な動物が硬い殻や骨格をまとって一気に化石記録に現れる「カンブリア爆発」は、約5億4100万年前の出来事だ。カイメンの化学の指紋は、それよりさらに約1億年もさかのぼる。動物というグループが、殻や骨格という「目に見える姿」を獲得するはるか前から、ひっそりと海に存在していたことを、この指紋は物語っている。
全球凍結のあとの、いのちの芽吹き
この時期が氷河期の直後だったことにも意味がある。クライオジェニアンには、赤道付近まで氷におおわれたとされる「スノーボールアース(全球凍結)」が二度も起きた。想像を絶する寒さを生き延びた先に、氷が溶け、大陸が削られ、大量の栄養分が海へ流れ込んだ。海の環境は大きく変わった。
固着して静かに水を漉すカイメンにとって、この変化はまたとない好機だったと考えられている。極限の凍結という試練の後に訪れた、豊かな「雪解けボーナス」。それが、動物たちが本格的に多様化していく舞台を整えた。カイメンの指紋は、そんな地球規模のドラマの幕開けを示す証人でもある。



氷河期のあとにいのちが花開くって、地球ってダイナミックだね!
まだ続く、「最初の動物」をめぐる論争


カイメンか、クシクラゲか
ただし、この物語に安易な結末をつけるのは控えたい。「カイメンが地球最古の動物だ」と言い切るには、まだ決着していない大きな論争があるからだ。動物の進化の系統樹をたどり、いちばん根元で最初に分かれたグループは何か——長らく体制の単純なカイメンが最有力とされてきたが、近年、神経も筋肉も持つクシクラゲ(有櫛動物)こそ最初に分かれたとする説が強力に浮上した。
ゲノム解析や染色体の配置パターンをめぐって、カイメン説とクシクラゲ説は今も交互に論文が出る係争地だ。加えて、2019年以降には、リザリア類という原生生物からもカイメンに似たバイオマーカーが報告され、「あの指紋は本当にカイメン専用か」という問いも残っている。科学は、こうした健全な疑いの応酬のなかで前進していく。
それでも確かなこと
とはいえ、揺るがない事実もある。系統樹の根元がカイメンであれクシクラゲであれ、少なくとも約6億年以上前の海に、普通海綿類に相当する動物が実在した——化学の指紋が示すこの一点は、動物進化の年表に強い制約を与える。誰が「最初」かの決着はまだでも、「動物はカンブリア爆発よりずっと早く始まっていた」ことは、確かな足場として残るのだ。
体化石という写真は残らなくても、分子化石という日記が残っていた。写真がなくとも、日記の筆跡から、その日そこに誰がいたかを読み取れる。バイオマーカー研究は、化石の空白期間を埋める、数少ない手立てなのである。
「動物らしさ」を問い直す発見


動く・食べる・考えるは、必須ではなかった
この発見は、私たちに素朴な問いを投げかける。水族館やダイビングでふと見かけるカイメンは、脳も心臓も持たないまま、6億年以上ものあいだ「固着して水を漉す」という生き方をほぼ変えずに続けてきた、動物界の最古参クラスの生き残りかもしれない。動きも、器官も、思考もなしに、それでも堂々たる動物なのだ。
私たちは「動物らしさ」といえば、動き回り、獲物を追い、周囲を感じ取る姿を思い浮かべる。だがカイメンは、そのどれも持たない。つまり、動くことも、活発に食べることも、考えることも、動物であるための必須条件ではなかった。私たちが当たり前と思っている「動物らしさ」の多くは、後から獲得されたオプションにすぎないのである。
動物の条件って、思ってたよりずっとシンプルなんだよ。
指紋が書き換える、いのちの年表
たった一種類の分子が、地球のいのちの年表を1億年も書き換えた。目に見える化石が何も語らない時代の海に、静かに水を漉す動物がいた。その事実は、生き物とは何か、動物とは何かという根源的な問いを、あらためて私たちに突きつける。
次に水槽の隅でひっそりたたずむカイメンを見かけたら、少し違って見えるかもしれない。脳も持たず、動きもせず、ただ黙々と海水を漉し続けるその姿は、地球で最初期に「動物」という道を歩みはじめた者たちの、遠い末裔なのだから。派手さはなくとも、そこには途方もない時間の重みが宿っている。
参考文献:
Demosponge steroid biomarker 26-methylstigmastane provides evidence for Neoproterozoic animals
Zumberge, Love et al., Nature Ecology & Evolution 2, 1709–1714 (2018). DOI: 10.1038/s41559-018-0676-2
出典: University of California, Riverside / MIT / Caltech ほか










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