シルミーはかせ、南極の氷河が2ヶ月で8キロも後退したって! 氷河ってそんなに速く崩れるものなの?
ふつうはもっとゆっくりだよ。今回のは観測史上いちばんの速さでね。しかも崩れ方が予想外だったんだ。氷河って、ふつうは先っぽからポロポロ崩れるものなんだけど、この氷河は「下から」崩れた。その謎解きが、じつに面白いんだよ。
南極半島の東側にあるヘクトリア氷河。この巨大な氷の川が、わずか2ヶ月ほどのあいだに8キロメートル以上も後退した。これは、これまでに観測された氷河の崩壊としては最速で、従来の記録の実に10倍もの速さだった。しかも、その崩れ方は、科学者たちの予想をくつがえすものだった。氷河は先端から落ちていったのではなく、なんと底のほうから崩れたのだ。いったい、何が起きたのか。この史上最速の崩壊の謎を、一つずつ解き明かしていこう。
2ヶ月で8キロ — 観測史上最速の崩壊


まず、この崩壊がどれほど異常だったかを、数字で見てみよう。舞台となったのは、南極半島の東岸にあるヘクトリア氷河。ここで、2022年に信じがたい速さの後退が起きた。とくに激しかったのは、その年の11月から12月にかけての約2ヶ月間だ。この短い期間に、氷河は8キロメートル以上も後退した。
この速さが、いかに桁外れかがわかる比較がある。崩壊のピークには、氷河の縁が1日あたり最大で約800メートルも後退していた。1日で、ほぼ1キロ近く氷が消えていく計算だ。従来の氷河の崩壊とくらべると、およそ10倍もの速度である。2022年のはじめから翌年にかけての全期間で見れば、氷河はその半分近くを失ったとされる。地球の氷が、これほどの勢いで崩れ去るとは、専門家でさえ想像していなかった。氷河の後退とは、ふつう何年、何十年という時間をかけてじわじわ進むものだ。それが、たった2ヶ月で街の端から端ほどの距離を一気に失う——この異常な速さこそが、研究者たちを驚かせ、原因の解明へと駆り立てた。
研究を主導したのは、アメリカのコロラド大学ボルダー校や、オーストリアのインスブルック大学などの研究チームだ。彼らは衛星の画像と、氷河が崩れるときに出る揺れをとらえた地震計のデータを組み合わせ、この異常な崩壊の原因に迫った。そして、常識をくつがえす答えにたどり着いたのである。
じつはこの地震計のデータには、もう一つ重要な発見が隠れていた。氷河が崩れるあいだも、氷が海底に接する境目(接地線)は、陸側にとどまり続けていたことが分かったのだ。これが意味するのは重い事実だ。崩れて失われた氷は、もともと海に浮いていたのではなく、陸に重さを預けていた。だからその消失は、そのまま海の水位を押し上げることにつながる。単なる氷の崩壊ではなく、海面上昇に直結する出来事だったのである。
氷河・棚氷・氷床 — まず言葉を整理しよう


謎を解く前に、いくつか大事な言葉を整理しておきたい。南極の氷は、いくつかの部分に分かれているのだ。
まず、大陸をまるごと覆う巨大な氷の塊を氷床(ひょうしょう)という。この氷床から、海に向かってゆっくりと流れ出していく氷の「川」が氷河(ひょうが)だ。ヘクトリア氷河も、その一つである。そして、氷河が海に流れ出て、海の上に浮かんで張り出した部分を棚氷(たなごおり)と呼ぶ。陸と海の境目にある、氷の浮き桟橋のようなものだ。
ここで、崩壊の急所となる言葉が出てくる。氷が海底から離れて、水の上に浮かび始める境目のことを接地線(せっちせん)という。そして、この接地線のあたりで、氷が薄く広がって、海底にかろうじて触れている程度の状態になっている場所を「氷平原(ひょうへいげん)」という。貯水池にたとえるなら、氷床が貯めた水、氷河がそこから流れ出す川、棚氷が河口の浮き橋、そして接地線が橋と川底のふれあう境目だ。この「氷平原」こそが、今回の急激な崩壊の引き金を握っていた。
なぜ、こんなに細かく言葉を分ける必要があるのか。それは、氷のどの部分がどう振る舞うかで、崩壊の起き方がまったく変わるからだ。海に浮いた棚氷が割れても、それ自体はすでに海に浮いているので、海の水位には直接ひびかない。だが、陸に踏ん張っていた氷河が海へ流れ出せば、話は別だ。つまり、崩壊の意味を正しく理解するには、まずこの氷の「地図」を頭に入れておく必要があるのだ。
謎の核心 — なぜ「下から」崩れたのか


いよいよ核心だ。氷河の崩壊というと、多くの人は「先端の氷が、ボロボロと海に崩れ落ちていく」場面を思い浮かべるだろう。ところがヘクトリア氷河は、まったく違う崩れ方をした。底のほうから、広い範囲が一気に崩壊したのだ。
その鍵が、さきほどの「氷平原」だった。この氷河の下には、驚くほど平らでなめらかな海底が広がっていた。氷が厚く、海底に凹凸があれば、氷は岩にしっかり引っかかって踏ん張れる。ところが、氷が薄く、海底が平坦だと、話は変わる。潮が満ちて海面がわずかに上がっただけで、薄く広がった氷が面ごとふわりと浮き上がってしまうのだ。海底との間の摩擦、いわば「引っかかり」が、一気に失われる。
こうして支えを失った広い範囲の氷が、内側からの海水と、後ろから押し寄せる氷河の圧力を受けて、次々と割れていった。これは、板チョコを端から一かけずつ折っていくのではなく、下に敷いた板ごと引き抜いて、全体をバラバラと落とすようなものだ。先端からゆっくり崩れる通常のパターンとは、まるで違う。この「下から崩れる」メカニズムこそが、史上最速の崩壊を引き起こした正体だったのである。
常識をくつがえした「見えない海の中」の融解


では、なぜ氷はそんなに薄くなってしまったのか。その原因は、私たちの目に見えない、海の中にあった。
南極を取り巻く海の深いところには、周極深層水と呼ばれる、比較的あたたかい海水が流れている。近年、この水が、以前よりも大陸の近くまで、深く入り込むようになってきた。あたたかい海水が氷河の底面に触れると、氷は下から溶けて、じわじわと薄くなっていく。北東の南極半島あたりの海では、深いところの水温が、この数十年で0.3度から1.5度ほど上がったと報告されている。
ここが、氷河の崩壊を考えるうえで大切なポイントだ。氷は、上から日光で溶けるより先に、海の中で、目に見えないところで溶けている。氷を空気中に置いておくより、ぬるま湯に浸けたほうが早く溶けるのと同じ理屈だ。こうして海の中でこっそり薄くなった氷が、平坦な海底の上でいよいよ浮きやすくなり、あの「下からの崩壊」へと突き進んでいった。海面上昇の危機は、私たちが見ていない海の底で、静かに準備されていたのである。
やっかいなのは、この海の中の融解が、簡単には目に見えないことだ。氷河の表面が溶けているなら、上空から衛星で見ればすぐに分かる。だが、氷の底が海水に溶かされている様子は、外からはうかがい知れない。氷河は、うわべは変わらないように見えて、じつは内側から着実にむしばまれていく。そして、ある日、限界を超えたときに、一気に崩れる。ヘクトリア氷河の突然の崩壊も、こうして水面下で進んでいた変化が、ついに表面化したものだったのだ。
じつは20年前の「棚氷崩壊」が始まりだった


この崩壊には、もう一つ、意外な背景がある。ヘクトリア氷河の暴走は、じつは20年も前に起きた出来事の、遅れてやってきた結末だったのだ。
棚氷は、ただ海に浮いているだけの氷の板ではない。後ろから流れ込もうとする氷河を、せき止める「支え壁」の役割を果たしている。この壁があるおかげで、氷河はゆっくりとしか海へ進めない。ところが、2002年のこと。ヘクトリア氷河の前方にあった巨大な棚氷(ラーセンB棚氷)が、突如として崩壊した。支え壁を失った氷河は、せき止められていた力を解放し、わずか数年で流れる速さが8倍にも跳ね上がった。まるで、ダムの水門を開けた瞬間に、川の流れが一気に加速するようなものだ。
そして、その加速がじわじわと氷河を薄く、不安定にしていった果てに、2022年の「下からの崩壊」が訪れた。つまり今回の急速な後退は、突然起きたのではなく、20年前に外れた支え壁の影響が、時間をかけて限界に達した結果だったのである。自然の変化には、こうして長い時間差をおいて牙をむくものがある。今、目の前で起きていることの原因が、はるか昔にあったというのは、氷河が私たちに突きつける、重い教訓だ。



20年も前のことが、いま影響してくるなんて……。南極半島って、そんなに温暖化が進んでる場所なの?
そう、じつは地球でもっとも温暖化が速い場所の一つなんだ。棚氷が崩れる、また別の仕組みもあってね。それを見れば、南極で何が起きているかがもっとよく分かるよ。
南極半島は「温暖化の最前線」


ヘクトリア氷河がある南極半島は、南極大陸のなかでも、とりわけ温暖化が急速に進んでいる地域だ。ここでは、大きな棚氷の崩壊が、過去に何度も起きている。
1995年にはラーセンA棚氷が、そして2002年にはラーセンB棚氷が、相次いで砕け散った。とくにラーセンBの崩壊は劇的で、わずか1ヶ月あまりで、およそ3250平方キロメートルもの氷が粉々になった。これは東京都の面積の1.5倍ほどにあたる。この崩壊の引き金となったのが、ハイドロフラクチャリングと呼ばれる現象だ。氷の表面が夏の暑さで溶けてできた水が、氷の割れ目に流れ込む。すると、その水の重みが、まるでくさびを打ち込むように氷を内側から押し広げ、割ってしまうのだ。
薪を割るとき、くさびを打ち込むと、少しの力で木が裂けていく。それと同じことが、巨大な氷の板で起きる。表面にたまったわずかな水が、氷全体を崩壊へと導く引き金になる。温暖化で氷の表面が溶けやすくなればなるほど、この危険は高まっていく。
ラーセンBの崩壊が衝撃的だったのは、その速さだけではない。この棚氷は、それまで少なくとも1万年以上ものあいだ、安定して存在し続けていたと考えられていた。そんな悠久の氷が、わずか1ヶ月あまりで消え去ったのだ。長い年月をかけて築かれた自然のバランスが、人間の活動によって、あっけなく崩れうる——その現実を、この崩壊は世界に見せつけた。南極半島は、地球温暖化がもたらす氷の崩壊を、いち早く、そして激しく見せつけている最前線なのである。
次は「終末の氷河」スウェイツか


研究チームがヘクトリア氷河の崩壊で最も警戒しているのは、この崩壊がほかの氷河でも起こりうるという点だ。とくに危険視されているのが、南極の反対側、西南極氷床にある氷河たちである。
西南極氷床は、その多くが海面より低い岩盤の上に乗っているという、やっかいな特徴を持つ。このため、いったん後退が始まると、それが止まらなくなる「暴走」のリスクを抱えている。なかでも有名なのが、スウェイツ氷河だ。あまりに巨大で、崩壊すれば周囲を巻き込んで西南極氷床全体の崩壊を招きかねないことから、「終末の氷河(ドゥームズデイ・グレイシャー)」という物騒な異名で呼ばれている。そして、このスウェイツ氷河の下にも、ヘクトリア氷河を崩壊させたのと同じ「氷平原」の構造があることが分かっている。
ここで、氷が溶けることがなぜ海面上昇に直結するのかを整理しておこう。海に浮いた氷山が溶けても、じつは海面はほとんど上がらない。コップに浮いた氷が溶けても水位が変わらないのと同じだ。だが、ヘクトリア氷河やスウェイツ氷河のように、海面より下の陸に重さを預けている氷が海へ流れ出て溶けると、話は別だ。コップの底に沈んでいた氷が溶けたときのように、確実に水位を押し上げる。もし西南極氷床が失われれば、世界の海面は数メートル上昇するとされる。ヘクトリア氷河の史上最速の崩壊は、その巨大な連鎖への、小さな、しかし不気味な前触れなのかもしれない。
南極の果てで起きた、下から崩れる氷河の異変。それは、平らな海底、あたたかい海水、そして20年前の棚氷崩壊という、いくつもの条件が積み重なって生まれた出来事だった。遠い南極のことのようでいて、その先には、私たちの暮らす海岸線の未来がつながっている。氷河が発する静かな警告に、これからも耳をすませていく必要がありそうだ。
参考文献
Ochwat N, Scambos T, et al. 『Record grounded glacier retreat caused by an ice plain calving process』 Nature Geoscience 18, 1117-1124, 2025. DOI: 10.1038/s41561-025-01802-4










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