シルミーはかせ、腸内細菌が「幸せホルモン」のセロトニンを作ってるって! じゃあ、ヨーグルトを食べれば幸せになれるの?
気持ちはわかるけど、そこには面白い誤解があってね。セロトニンの大半は、じつは脳じゃなくて腸にあるんだ。そして、腸のセロトニンと脳の幸せは、そう単純につながってはいない。腸内細菌がセロトニンを作るという最新の発見と、その正しい意味を、順に見ていこう。
お腹の調子が乱れる過敏性腸症候群(IBS)。日本では、およそ10人から15人に1人が悩んでいるとされる、身近な不調だ。この病気の背景に、意外な立役者がいることが分かってきた。私たちの腸の中にすむ腸内細菌が、なんと「幸せホルモン」として知られるセロトニンを作り出し、腸の働きを支えていたのだ。ただし、この話には、知っておきたい正しい理解のポイントがいくつもある。腸と幸せホルモンをめぐる、意外な関係をひもといていこう。
「幸せホルモン」の95%は、脳の外にある


まず、大きな誤解を解いておこう。セロトニンと聞くと、多くの人は「気分を明るくする、脳のホルモン」というイメージを持っているだろう。たしかに、脳の中では気分の調整に関わっている。だが、じつは体内のセロトニンの約95%は、脳ではなく腸に存在しているのだ。脳の中で作られるのは、ほんのわずか数%にすぎない。
では、腸にあるセロトニンは、いったい何をしているのか。その主な役割は、腸の動きをコントロールすることだ。食べたものを消化し、腸の中を適切なスピードで移動させる。このリズムが狂うと、下痢になったり便秘になったりする。つまり、腸のセロトニンは「気分」とは別の、消化管の交通整理役として働いているのである。「幸せホルモン」という呼び名は脳での役割から来ているが、その「本業」はむしろ、地道な腸の管理係なのだ。
そして、ここが大切なポイントだ。過敏性腸症候群の患者さんでは、この腸のセロトニンに関わる仕組みが乱れていることが、以前から知られていた。だが、なぜ乱れるのか、どうすれば治せるのかは、長らく謎に包まれていた。その謎を解く手がかりが、意外な場所から見つかった。私たちの腸にすむ、小さな細菌たちだったのである。
ちなみに、腸のセロトニンを作っているのは、主に「腸クロム親和性細胞」という、腸の壁にある特別な細胞だ。腸全体から見ればごくわずかしかない希少な細胞だが、この細胞たちが、体内のセロトニンの大部分を黙々と生産している。ふだん私たちが意識することのない腸の奥深くで、気分とは別の、体を動かすための化学が、静かに営まれているのである。
腸内細菌がセロトニンを作っていた


2025年、スウェーデンのヨーテボリ大学の研究チームが、画期的な発見を報告した。腸内にすむ細菌を一つひとつ地道に調べた末に、セロトニンを作り出せる細菌を突き止めたのだ。ただし、その細菌の正体には、少し驚くべき事情があった。
見つかったのは、二種類の細菌だった。一つはリモシラクトバチルス・ムコサエ、もう一つはリギラクトバチルス・ルミニスという、どちらも私たちの腸内に自然にすむ細菌だ。面白いのは、この二種類が一緒にいて初めて、セロトニンを作れるという点だ。どちらか一方だけでは作れない。二つの細菌が手を組んで、いわば共同作業でセロトニンを合成していたのである。
ここで一つ、正確を期しておきたいことがある。これらの細菌は、セロトニンの遠い原料であるトリプトファンから、いきなりセロトニンを作るわけではない。その合成のうち、最後の一段階——「5-ヒドロキシトリプトファン」という中間物質から、セロトニンへと変える反応を担っている。細菌たちは、生命の化学工場の最終工程を、二人がかりで受け持っていた、というわけだ。腸内細菌が、ただ住み着いているだけでなく、私たちの体の化学に、これほど深く関わっていたことは驚きである。
じつは、腸内細菌とセロトニンの関わりは、これ以前にも研究されてきた。2015年には、別の研究チームが、一群の腸内細菌が、私たちの体の細胞に働きかけて、セロトニンの産生をうながすことを示している。ただしこのときは、細菌が体の細胞を「後押しする」という間接的な関わりだった。今回の発見は、細菌みずからがセロトニンを「作る」という、より直接的な役割を明らかにした点で、一歩踏み込んだものといえる。
マウスの実験で「消化」が正常に戻った


この細菌が本当に腸で役立っているのか。それを確かめるため、研究チームは腸内細菌をまったく持たない特殊なマウスを使って実験を行った。無菌の状態で育てたマウスは、腸のセロトニンが不足し、消化の働きも整っていない。
このマウスに、例の二種類の細菌を与えてみた。すると、はっきりとした変化が現れた。まず、腸の中のセロトニン濃度が回復した。さらに驚くべきことに、腸の壁にある神経細胞が増え始めたのだ。そして、食べ物が腸を通過するスピードを測ってみると、それも正常な状態へと近づいていた。細菌がセロトニンを作ることで、腸の消化システム全体が、まともに機能するようになったのである。
これは、腸内細菌が作るセロトニンが、ただそこに存在するだけの物質ではないことを示している。腸の神経系に働きかけ、その発達をうながし、消化のリズムを整える——そんな積極的な役割を担っていたのだ。人間の側でも、過敏性腸症候群の患者さんを大勢調べたところ、健康な人に比べて、このセロトニンを作る細菌の一つが少なくなっていることが分かった。腸の不調と、腸内細菌の顔ぶれが、確かにつながっていたのである。
とりわけ注目されるのが、細菌によって腸の神経細胞が増えたという点だ。これまで、体の神経のつくりは、成長するとほぼ固定されると考えられがちだった。ところが腸では、そこにすむ細菌の働きによって、神経の発達そのものが左右されうる。私たちの体は、自分だけで完結しているのではなく、腸内にすむ無数の細菌との共同作業のうえに成り立っている——この研究は、そんな驚くべき事実を、あらためて突きつけている。
腸は「第二の脳」— 独自の神経ネットワーク


腸内細菌が神経に働きかける、と聞いて、意外に思う人もいるかもしれない。じつは腸には、脳や脊髄とは別に、独自の神経システムが備わっている。これを腸管神経系という。
この神経のネットワークは、食道から肛門まで、腸の壁の中に張り巡らされている。そこに含まれる神経細胞の数は、文献によって幅があるものの、1億から5億個にものぼるとされる。これは脊髄全体の神経細胞の数に匹敵する、あるいはそれを上回るほどの規模だ。その膨大さから、腸は「第二の脳」と呼ばれることもある。
この腸管神経系のすごいところは、脳からの指令を待たずに、自動的に働ける点だ。食べ物の消化や吸収、腸の動き、血流の調整などを、みずからの判断でコントロールしている。そして、この神経系の中で重要な信号の伝達役を務めているのが、まさにセロトニンなのだ。神経細胞から神経細胞へと信号を伝えるセロトニンが不足すると、この伝達がうまくいかなくなり、腸の動きが乱れてしまう。腸内細菌が作るセロトニンは、この「腸の脳」を正しく働かせるための、大切な潤滑油だったのである。
過敏性腸症候群と「細菌の欠乏」


ここで、この記事の出発点だった過敏性腸症候群(IBS)について、あらためて見てみよう。IBSは、腸に潰瘍やがんといった目に見える異常がないのに、腹痛や、下痢・便秘といった便通の異常が続く病気だ。こうした、はっきりした原因が見当たらないタイプの不調を「機能性の疾患」と呼ぶ。
日本での有病率は、およそ10%から15%とされ、決して珍しくない。とくに、働き盛りの世代や女性に多いことが知られている。長年、原因がはっきりせず、決め手となる治療法もなかったため、多くの人が悩まされてきた。ところが今回の研究で、IBSの患者さんの腸内では、セロトニンを作る細菌の一つが減っていることが分かった。これは、腸の不調の背景に、腸内細菌の顔ぶれの変化があるかもしれない、という新しい視点を開くものだ。
もし、この見方が正しければ、将来的には不足した細菌を補うことで、IBSを改善できる道が見えてくるかもしれない。現在のIBS治療は、消化に悪い成分を控える食事療法や、ストレスの管理、症状をやわらげる薬などが中心だ。そこに、腸内細菌を整えるという新しいアプローチが加われば、治療の選択肢は大きく広がる。腸の不調に苦しむ人々にとって、これは希望の持てる発見なのである。



じゃあ、腸でセロトニンが増えれば、気分も明るくなるってこと?
そこが、いちばん誤解されやすいところなんだ。じつは、腸で作られたセロトニンは、そのままでは脳に届かない。だから「腸のセロトニン=気分」とは、単純に言えないんだよ。
腸のセロトニンは、脳に届かない


ここで、もっとも大切な誤解を正しておきたい。「腸でセロトニンが増えれば、気分も明るくなる」——そう考えたくなるが、話はそう単純ではない。
その理由は、脳を守る仕組みにある。脳には、血液脳関門という、いわば厳重な関所がある。血液に乗って運ばれてくる物質のうち、脳に必要なものだけを通し、余計なものは通さない、という選別を行っている。そして、セロトニンそのものは、この関所を通り抜けられない。つまり、腸でどれだけセロトニンが作られても、それがそのまま脳に運ばれて、気分を明るくするわけではないのだ。腸のセロトニンと脳のセロトニンは、いわば別々の場所で、別々に作られ、別々に働いている。
ちなみに、原料となるトリプトファンは食事からとる必要がある必須アミノ酸で、腸と脳では、それをセロトニンに変える酵素すら別のものが使われている。腸で活躍するセロトニンは、あくまで腸の中の仕事のためのものだ。だから、腸内細菌の発見が、ただちに「気分の薬」につながるわけではない。この点を正しく理解しておくことが、過剰な期待や誤解を避けるうえで、とても大切なのである。
なぜ脳は、そこまで厳重に自分を守っているのだろう。それは、脳が私たちにとって、あまりにも大切で、繊細な器官だからだ。血液の中には、体には必要でも脳には有害なさまざまな物質が流れている。それらが無防備に脳へ入り込めば、脳の働きは簡単に乱れてしまう。だから脳は、血液脳関門という関所で、入ってくるものを厳しく選別している。腸のセロトニンが脳に届かないのも、この徹底した防御の一環なのだ。腸と脳は、迷走神経などを通じて情報のやり取りはするものの、物質そのものは、簡単には行き来できないようになっているのである。
「ヨーグルトで幸せに」は、まだ言えない


では、冒頭のシルミーの疑問——「ヨーグルトを食べれば幸せになれるのか」に、正直に答えよう。残念ながら、今の段階では、そう単純には言えない。ここにも、いくつかの注意点がある。
まず、今回セロトニンを作ると分かった二種類の細菌は、私たちの腸内にもともとすむ細菌であって、市販のヨーグルトに一般的に含まれている乳酸菌とは別物だ。だから、ふつうのヨーグルトをたくさん食べても、この特定の細菌が増えるとは限らない。さらに、この研究はまだ、マウスの実験と、人間の腸内細菌を調べた相関関係の段階にとどまっている。実際に人にこの細菌を摂取してもらい、症状が良くなるかを確かめる試験は、これからなのだ。
だからこそ、「腸内細菌がセロトニンを作る」という発見を、「ヨーグルトを食べれば幸せになれる」と早合点してはいけない。これはあくまで、将来の新しい治療につながるかもしれない、貴重な基礎研究の一歩だ。科学の発見は、しばしばこうして、期待と現実のあいだで慎重に扱う必要がある。正しく理解してこそ、その本当の価値が見えてくるのである。
健康の話題では、こうした「基礎研究の発見」が、いつのまにか「これを食べれば健康になる」という断定にすり替わってしまうことが少なくない。だが、マウスで確かめられたことが人でも成り立つとは限らないし、細菌を実際に使った治療が安全で効果的だと分かるまでには、まだ多くの段階が残されている。期待に胸をふくらませるのは自然なことだが、科学の歩みを正しく見きわめる目も、同じくらい大切なのだ。
腸と心をつなぐ「脳腸相関」のこれから


とはいえ、腸と心が、まったく無関係だというわけでもない。近年、腸内細菌が、私たちの心の状態に影響を与えているのではないか、という研究が盛んになっている。この、腸と脳がたがいに影響し合う関係を「脳腸相関」と呼ぶ。
たとえば、動物の実験では、腸内細菌の状態が、不安やストレスへの反応に影響することが、いくつも報告されている。腸内細菌が、気分や心の健康に作用しうる——そんな可能性から、心によい影響を与える細菌を「サイコバイオティクス(精神生物)」と呼び、活用しようという新しい研究分野も生まれつつある。無菌状態で育てたマウスが、通常のマウスとは違う不安の反応を示す、といった実験結果が、この分野を後押ししている。腸を整えることが、いつか心の健康にもつながる日が来るのかもしれない。
ただし、これも慎重に受け止めたい。動物実験で分かったことが、そのまま人間に当てはまるとは限らないし、前に見たとおり、腸のセロトニンが直接脳に届くわけでもない。それでも、「腸は単なる消化器官ではなく、心とも深くつながっているらしい」という視点は、私たちの体の見方を、確かに広げてくれる。お腹の調子を整えることが、体だけでなく、心の健やかさにもつながる——その壮大な謎解きは、いままさに、科学の最前線で進められているのである。
参考文献
Moretti CH, Bäckhed F, et al. 『Identification of human gut bacteria that produce bioactive serotonin and promote colonic innervation』 Cell Reports 44(10), 2025. DOI: 10.1016/j.celrep.2025.116434
Yano JM, Hsiao EY, et al. 『Indigenous Bacteria from the Gut Microbiota Regulate Host Serotonin Biosynthesis』 Cell, 2015










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