物理学者ロジャー・ペンローズが1969年に打ち出した予想がある。
回転するブラックホールの周りに『エルゴ球』という時空が引きずられる領域があり、そこに突っ込んだ波はエネルギーを奪って強くなって出てくる——そういう主張だ。
理屈は美しいが、確かめる方法がなかった。ブラックホールを持ち込めるはずもなく、代わりに『十分速く回る何か』を用意しようにも、必要な速度が現実離れしていたためだ。
その袋小路を、CUNY大学院センターの高等科学研究センター(CUNY ASRC)のチームが別ルートで抜け出した。
2026年7月8日付で学術誌『Nature』に掲載された論文『Observation of Floquet rotational super-radiance』(DOI:10.1038/s41586-026-10725-y)によれば、装置は物理的には一切回っていない。
ところが波の側から見ると、装置は光速を超える勢いで回転しているように振る舞う。そして実際にエネルギーが波へと移った。
50年以上『紙の中の予言』だったペンローズの主張が、リング状の電子回路の上で観測可能な物理現象として姿を現した瞬間だ。
キク跳ね返ってきた波が強くなるなら、増えた分のエネルギーはどこから来てるんだろう?
50年前の予言:ブラックホールのエルゴ球で何が起きるはずだったか


ペンローズが提示したのは、いわゆる『ペンローズ過程』だ。自転する巨大質量の周りには、時空そのものが引きずられるエルゴ球という領域が生じる。
そこに粒子を投げ込んで、内部で2つに割れるように仕組むと、片方はブラックホールへ落ち、もう片方は入ってきた時よりも大きなエネルギーを持って外に飛び出す。
差分のエネルギーは、ブラックホールの回転から引き抜かれたものだ。
1971年、ソ連の物理学者ゼルドヴィッチが、この効果を粒子ではなく波で考えると『特定の回転パターンを持った電磁波が増幅されて戻ってくる』と拡張した。
これが『ペンローズ・ゼルドヴィッチ過程』と呼ばれるもので、後に『超放射(スーパーラディアンス)』として知られる。
要は、鏡のように反射させたつもりが、返ってきた波の方が振幅が大きい——そういう反則的な現象だ。
この理論は美しく整っており、ブラックホールの他にも、水面波を回転する水槽で試した実験(2017年に英ノッティンガム大学のグループが渦タンクで似た挙動をNature Physics誌に報告)などが積み上げられてきた。
2024年には、回転させた金属の円筒で電磁波(ラジオ波)が増幅される実験も報告されている。ただ、機械で回す方法では、回転の速さに限界がある。
大事な点をひとつ整理しておくと、超放射は『無から生まれるエネルギー』ではない。回転する系のもつ回転エネルギーを、波が代わりに担いで持ち去るだけだ。
ブラックホールを想像するなら、自転が少しずつ遅くなり、その分だけ外に出ていく波が強くなる、という描像になる。
実証を阻んだ壁:必要な回転速度が光速を超えていた


電磁波の超放射を成立させるには、媒質を波の速度に匹敵する角速度で回す必要がある。電磁波は光速で伝わるから、必要なのは事実上『光速級の回転』だ。
円盤や球体をそこまで機械的に回すのは論外で、たとえ耐えるとしても遠心力で自壊してしまう。
だからこれまでの実験は、水面波や音波など『速度が遅い波』で辻褄を合わせる方向に寄っていた。電磁波でやりたいなら、装置を回さずに『回っているように見せる』別の道が要る。
CUNYチームが賭けたのがこの発想だ。
ここまでのアナログ実験と今回のCUNY実験を、テーブルで並べてみる。
| アプローチ | 使う波 | 回転の作り方 | 実効速度の上限 |
|---|---|---|---|
| 渦タンク(2017年ノッティンガム大) | 水面波 | 物理的な水の渦 | 水面波の速度以内 |
| 音響・回転リング | 音波 | スピーカーや流体の回転 | 音速の数分の1 |
| 今回のCUNY実験(2026) | 電磁波(マイクロ波) | 時間変調による擬似回転 | 原理上、光速を超える領域まで |
装置は一切回らない:電気的な『擬似回転』で光速超えを実現


チームが組んだのは、電子共振器のリングネットワークだ。共振器を輪っか状に並べ、それぞれの電気的な性質(共振周波数や結合の強さ)を、外部から時間的にずらしながら書き換える。
こうして輪の周りを『変化のパターン』が回っていく。これが擬似回転の正体だ。
ここで大事なのは、実際に動いている物体は何もないという点だ。物理的な回転体がなければ、遠心力もない、材料強度の限界にも縛られない。
時間変調のスピードだけで実効的な角速度が決まり、原理的には光速の壁を軽々と越えられる。
研究チームはこの仕組みを『時空変調(space-time modulation)』と呼び、生じる周期構造を時空結晶と表現した。
この時空結晶に電磁波を送り込むと、波は装置の内部で本物の回転体と衝突しているかのように振る舞う。数式の上では、ブラックホールのエルゴ球の中で起こる現象と同じ形の方程式に落ちる。
実験で見えたもの:特定の『回り方』の波だけがエネルギーを吸い出した


装置に入れる電磁波には、進行方向とは別に『どちら向きに回転しているか』という属性がある。物理では軌道角運動量と呼ぶ。
結果は明快だった。装置の擬似回転と同じ向きに回る成分の波だけが、通過中に振幅を増して出てきた。逆向きの成分は変化しない。
装置は動いていないのに、特定の『回り方』を持ち込んだ波だけが確かにエネルギーを吸い上げていた。
論文はこの現象を『フロケー回転超放射(Floquet rotational super-radiance)』と名付けている。
フロケーとは、時間的に周期変化する系を扱うときの物理学の枠組みだ。装置は空間的にも時間的にも周期的に振る舞い、その特殊な帯構造(バンド)に『角運動量バンドギャップ』と呼ばれる隙間が現れる。
そこにハマった波だけが増幅を受ける、というのが本論文の骨格だ。



装置は少しも回ってないのに、輪の周りを回っていく電気的な変化のパターンと同じ向きに回る波だけが、強くなって出てくるんだ。
ペンローズ実験の『再現』としての位置づけ:何を確かめられたのか


気を付けたいのは、CUNYの装置はブラックホールそのものを作ったわけではないという点だ。事象の地平面もなく、時空も曲がっていない。
あくまで方程式の形が同じ現象——アナログ模型だ。
それでも意義は薄まらない。むしろこの手のアナログ実験の価値は、『本物の宇宙では観測が難しい極限現象を、実験室で条件を制御しながら覗ける』という一点にある。
研究を率いたアンドレア・アリュ教授は「選んだ回転の性質を持つ波が、時間をつくりこんだ人工的な回転からエネルギーを取り出し、広い周波数帯で選択的に増幅される」と、この手法を説明している。
実際、これまでは天体の観測データや数値シミュレーションでしか語れなかった超放射の細部を、卓上サイズで測って議論できるようになった。
アナログ実験でスターだったのは、これまで水面波の渦タンクや、静止した鏡を用いた光学実験だった。
CUNYのアプローチは『擬似回転が光速を超える領域に踏み込める』という点で、これらより一段深い領域に手が届く。





回り方を選んで波を強める仕組みって、実験室の外でも何かに使えるのかな?
波及効果:量子・通信・光学デバイスへの跳ね返り


この成果は、極限宇宙物理の話にとどまらない。時空変調で生まれる特殊な帯構造は、広い周波数帯にわたって『回り方を選んで』波を増幅するという工学的にありがたい性質を持つ。
狙った軌道角運動量を持つ信号だけを選択的に強めたり、方向によって透過性が変わる非相反素子として使えたりする可能性がある。
共同筆頭著者のハディ・ムーサ氏(CUNY ASRCで博士課程を修了)は「適切な回転の性質を持つ波がシステムからエネルギーを取り出して増幅され、ペンローズ・ゼルドヴィッチ過程の本質を再現した」と話す。
5G以降の無線通信、光子1個を扱う量子通信、光を使った演算(フォトニックコンピューティング)といった分野で、方向性のあるアンプや、干渉に強い信号処理素子として応用が探られるだろう。
もっとも、実用化までにはギャップがある。
今回の装置は電子共振器で組まれており、光の領域(可視光や近赤外)で同じ現象を出すには、光集積回路上でナノ秒~フェムト秒スケールの高速変調を安定させる必要がある。
発表では、同じ考え方を光や量子の装置にも広げられる見込みだとしている。
研究の資金元は米国防総省、米国立科学財団(NSF)、そしてサイモンズ財団だ。
基礎物理と国防・通信インフラの双方から関心が寄せられている点は、この領域が『机上の思考実験』から『使える技術の入り口』へと少しずつ移りつつあることを示している。
研究者たちの言葉と、この実験の限界
論文は5人の共著者によるもので、ハディセ・ナサリ氏とムーサ氏が共同筆頭著者だ。
ナサリ氏は「極限的な回転のダイナミクスを理論から実践へと移し、天体物理・波動物理・量子科学の交差点にある幅広い現象を探る汎用的な実験の場を作った」と話している。
もちろん、これで『ブラックホールから発電できる』という話にはならない。装置内部の擬似回転はエネルギーを外部の電源から補給する形で維持されるので、無から取り出しているわけではない。
宇宙のブラックホールを削って動力源にする、といったSF的な話は、なお別の技術体系が要る。
参考文献:
一次ソース: Nasari H., Moussa H., Kasahara Y., Thielens A., Alù A. Observation of Floquet rotational super-radiance (Nature, 2026) DOI:10.1038/s41586-026-10725-y
研究機関: Advanced Science Research Center, CUNY Graduate Center (CUNY ASRC) / 二次ソース: ScienceDaily
関連研究: Torres T. et al. Rotational superradiant scattering in a vortex flow (Nature Physics, 2017) DOI:10.1038/nphys4151









