カナダ・ウォータールー大学の人類学者が率いるチームは2026年、1845年に北極で消息を絶ったフランクリン隊の隊員4人を、新たにDNAで特定したと発表した。
うち1人は、1859年にキング・ウィリアム島の南岸で見つかった白骨だ。そばにはハリー・ペグラーという水夫の書類があったのに、服装は別の役職を示していたため、誰の骨なのかが長く議論されてきた。
決め手は、遺骨のミトコンドリアDNAが、ペグラーの姉の家系をたどった子孫のものと「遺伝的距離ゼロ」で一致したことだった。
成果は考古学誌『Journal of Archaeological Science: Reports』と極地研究誌『Polar Record』に2026年に掲載され、DNAで身元がわかったフランクリン隊員は合計6人になった。
キクそもそもフランクリン隊って、何をしに北極まで行ったの?
1845年5月:2隻の英艦、北西航路を目指して出港
フランクリン隊は1845年5月19日、イングランドのグリーンハイスを出航した。
大西洋と太平洋を北極海経由で結ぶ「北西航路」を探すため、イギリス海軍のジョン・フランクリン卿が、HMSエレバスとHMSテラーの2隻を率いた。
出航時の士官と乗員は134人で、7月にグリーンランドで補給船が病人などを乗せて引き返したあと、129人で航海を続けた。
カナダ公園局によると、遠征は当時のヨーロッパの基準では十分に準備され、最新の技術を備えた船に3年分の物資を積んでいた。
2隻は1846年9月、ヌナブト準州のキング・ウィリアム島の北西沖で氷に閉じ込められた。1847年6月11日には、フランクリン本人が亡くなった。
のちに見つかったメモによると、1848年4月までに士官と乗員あわせて24人が死亡していた。
1848年4月:105人が船を捨て、氷原を歩き始めた


1848年4月、凍結から2年近くが経ち、生き残っていた105人は2隻の船を捨てた。キング・ウィリアム島の西岸に沿って、ソリに載せたボートを引きながら歩いて南へ向かった。
目指したのは、本土を流れるバック川(グレート・フィッシュ川)だった。
しかし、一人も生き残れなかった。19世紀半ばから、キング・ウィリアム島とアデレード半島では隊員の遺骨が見つかってきたが、誰の骨かがわかった例はわずかだった。
たとえば1879年に島の北西岸で見つかった遺骨は、そばにあった数学のメダルから、HMSテラーのジョン・アーヴィング中尉のものとされた。
ただ、この遺骨は1881年にスコットランドに埋葬されたため、DNAでは確かめられていない。
1859年:凍土に残された『ペグラー文書』と身元の矛盾
1859年5月26日、フランクリン隊を捜していたマクリントック隊が、キング・ウィリアム島の南岸、シンプソン海峡に面した場所で、雪の上にあおむけに横たわる1体の白骨を見つけた。
そばの革の手帳には、HMSテラーの前檣楼長(Captain of the Foretop)ハリー・ペグラーの船員証と、詩や遠征中の出来事を書いたらしい文章などが入っていた。
前檣楼長は下士官の役職だ。これらの書類はのちに「ペグラー文書」と呼ばれるようになった。
ウォータールー大学のロバート・パーク教授は「この遺体は、遠征隊の書いたものとしてはほぼ唯一見つかった書類と一緒に見つかった。だから、この水夫の身元をはっきり特定できたことは興味深い」と話している。
ところが、遺骨の周りに散らばっていた衣服の切れ端は、ダブルのベストと、ゆるい蝶結びにした黒い絹のネッカチーフだった。
水兵や士官はしない身なりで、スチュワード(給仕係)か士官の従者のものと考えられた。そばには洋服ブラシもあった。
マクリントック自身はこの骨をペグラーだと考えたようだ。しかし、のちの研究者の多くは、ペグラーと親しかったスチュワードが彼の書類を持っていたとみた。
候補には、以前ペグラーと同じ船に乗っていたHMSテラーのトーマス・アーミテージやウィリアム・ギブソンが挙がっていた。
1859年に白骨が見つかってから、その身元がDNAで確かめられるまでには、160年以上の年月がかかりました。



白骨のそばの書類は水夫ペグラーのものなのに、服は給仕係(スチュワード)っぽかったから、別の人がペグラーの書類を持ってたって考えられてたんだ。
2014〜2024年:沈没船の再発見とDNAで返された最初の2人
21世紀に入ると、2014年9月にHMSエレバス、2016年9月にHMSテラーの沈没船が見つかった。カナダ公園局によると、発見にはイヌイットの伝承と新しい知識・技術の両方が役立った。
一方、ウォータールー大学で人類学の非常勤助教授を務めるダグラス・ステントン氏らのチームは、キング・ウィリアム島などで見つかった遺骨のDNAを子孫のDNAと比べて、身元の特定を進めてきた。
2021年には、エレバスの機関士ジョン・グレゴリーを特定した。2024年にはエレバスの艦長ジェームズ・フィッツジェームズを特定し、その遺体が共食いの対象になっていたことも示した。
2026年:遺伝的距離ゼロで確定した4人の水夫
2026年5月の発表で、チームはさらに4人を特定した。
論文の著者は、ステントン氏、同大学のパーク教授、レイクヘッド大学古DNA研究室のスティーヴン・フラトピエトロ氏、独立研究者のケイトリン・ゴーサリッツ氏の4人だ。
HMSエレバスの3人は、熟練水兵(Able Seaman)のウィリアム・オレン、1等少年水兵のデヴィッド・ヤング、下級士官付きスチュワードのジョン・ブリッジェンズで、3人ともエレバス湾で亡くなっていた。
3人が遠征の最初の3年を生き延び、船を捨てて脱出を試みた一団にいたことも確かめられた。HMSテラーの1人が、1859年の白骨の主、ヘンリー・ピーター(ハリー)・ペグラーだった。
ステントン氏によると、ペグラーはDNAで確実に特定されたHMSテラーの唯一の水夫で、ほかの3人から130キロ離れた場所で見つかった。
論文によれば、ペグラーはシンプソン海峡の一帯で身元がわかった唯一の隊員で、一人で亡くなったと考えられている。
身元の決め手は「遺伝的距離」だ。遺骨のDNAと子孫のDNAとで、比べた目印(マーカー)の違いを数えた値で、4人ともこの値がゼロだった。
研究チームは、遺骨とDNAの提供者が共通の祖先を持つ強い証拠だとしている。また、今回の4人の遺骨には共食いの跡は見られなかった。



白骨は給仕係(スチュワード)の誰かだって説が有力だったなら、給仕係たちの子孫のDNAは調べてみたのかな?
決め手はミトコンドリアDNAと母系の家系記録
ペグラーの特定では、まずスチュワード説を確かめた。2隻には4人ずつ、計8人のスチュワードがいた。チームはそのうち6人の子孫からDNAを集めたが、遺骨と一致する人はいなかった。
残るトーマス・アーミテージとウィリアム・フォウラーの2人は、条件に合う子孫が見つからず、調べられなかった。
肝心の白骨は、1973年に回収されたあと、1980年代後半に博物館で行方不明になっていた。
そこでチームは2019〜2023年に現場を発掘し、1973年にふるいにかけた土の中から、足の骨1つと手の指の骨2つを見つけた。
DNAを取り出したのはフラトピエトロ氏だ。これらの骨から、母系をたどるミトコンドリアDNA(ハプログループU5a2a)と、父系をたどるY染色体DNAの一部が得られた。
比べた相手は、ペグラーの姉メアリー・アンから、母から娘へと5世代つながる家系の子孫だ。
両者のミトコンドリアDNAは遺伝的距離ゼロで一致し、同じ型はデータベースにある5万2973件のほかの型に一度も現れなかった。
論文は、この提供者と遺骨の主が母系の親族である見込みを、親族でない場合の6121倍と計算している。一方、父方の子孫とのY染色体の比較は遺伝的距離が2で、決め手にはならなかった。
では、ペグラーはなぜスチュワードの服を着ていたのか。論文は理由を確定していないが、服が足りなかったからとは考えにくいとしている。
船を捨てたあとの拠点には防寒着が山のように捨てられていたし、服の不足ではネッカチーフの結び方や洋服ブラシまでは説明できないからだ。
論文が挙げるもう一つの可能性は、ペグラーが1848年4月までに、下士官からスチュワードに降格されていたというものだ。
ペグラーには1833年にも、酒に酔って反抗したとして降格された記録がある。ただし、1845〜1848年のHMSテラーでの行いについては記録がない。
この方法でDNAを比べられるのは、母から娘へ(ミトコンドリアDNA)、または父から息子へ(Y染色体DNA)、途切れずにつながることを家系の記録で示せる子孫に限られる。
チームは、フランクリン隊のほかの隊員の子孫にも、DNAでさらに身元がわかるかもしれないとして連絡を呼びかけている。




BBCニュース記者が受け取った家系の便り
ジョン・ブリッジェンズの子孫は、BBCニュースの記者リッチ・プレストン氏だった。
プレストン氏は「ステントン博士から最初に連絡をもらい、研究のことを聞いて、DNAサンプルを提供してくれないかと頼まれたときは、とても興味をそそられた」と話す。
そして「自分のDNAが、悲運のフランクリン隊の水夫の一人と一致したとチームから聞いて、本当に驚いた。以前、人々の興味深い家族の物語をたどるBBCの系譜番組の仕事をしていたので、自分の家族の過去にこんなに興味深い話があったとわかって、とてもわくわくしている」と語っている。
ステントン氏は「生きている子孫にとって、今回の結果は、親族が亡くなった状況と場所、そして共に亡くなった船員仲間の一部が誰だったのかについて、これまで得られなかった詳しい情報をもたらす」と述べている。
共食いの痕跡と、骨が語ること


DNAで身元がわかると、骨に残る跡も一人ひとりの記録として整理できる。2024年に特定されたフィッツジェームズの遺体は共食いの対象になっていたが、今回の4人の遺骨にはその跡がなかった。
ペグラーについては、発見者マクリントックの観察も確かめられた。
マクリントックは骨を若い男のものと推測したが、1812年生まれのペグラーは、1848年の夏か秋に亡くなったとすれば36歳で、論文はこの推測は外れていたとしている。
一方、マクリントックが日誌に記した大腿骨の長さ(18インチ)から推定した身長は約171.6センチで、記録に残るペグラーの身長と同じだった。
参考文献:
一次ソース1: Stenton, D.R. et al., DNA identifications of three 1845 Franklin expedition sailors from HMS Erebus (Journal of Archaeological Science: Reports, 2026, 72:105739) DOI:10.1016/j.jasrep.2026.105739
一次ソース2: Stenton, D.R. et al., Some very hard ground to heave: DNA identification of Harry Peglar, Captain of the Foretop, HMS Terror (Polar Record, 2026, 62) DOI:10.1017/S003224742610031X
一次ソース2の本文(オープンアクセス): Cambridge University Press(PDF)
研究機関: ウォータールー大学、レイクヘッド大学 / プレスリリース: University of Waterloo (2026-05-06) / 二次ソース: ScienceDaily (2026-09-10)
背景: Parks Canada: Franklin’s 1845 expedition
アイキャッチ画像: François Musin「HMS Erebus in the Ice, 1846」(王立グリニッジ博物館所蔵、パブリックドメイン)









