脳もなく、心臓もなく、一生を岩にへばりついて過ごす。海底にじっとたたずむカイメン(海綿動物)は、一見すると植物か岩の一部のようだ。
だが、れっきとした動物である。そしてこの地味な生き物が、地球で最も古い動物の一つだった可能性を、意外な形の証拠が指し示している。
手がかりは、体そのものではない。岩の中に残された化学物質だ。
カリフォルニア大学リバーサイド校のゴードン・ラブ教授らのチームは2018年、約6億6000万〜6億3500万年前の岩石から、普通海綿類というカイメンのグループが作るステロイドの化石を検出したと報告した。
ただし後で見るとおり、この「指紋」が本当にカイメンのものかには強い反論が出ている。
まず「化学化石」という証拠を知る
体が消えても、分子は残る
ふつう「化石」と聞けば、骨や殻を思い浮かべる。だがカイメンのように軟らかい体の生き物は、たいてい跡形もなく分解されてしまう。
ところが、体を作っていたある種の分子だけは、何億年もの時を越えて岩の中に残ることがある。これが「バイオマーカー」、いわば分子の化石だ。
鍵を握るのは、生物の細胞膜を作るステロールという脂質。コレステロールの仲間だと思えばいい。
生き物が死んで地層に埋もれると、このステロールは長い年月と地熱・圧力を受けて、ステランというきわめて安定な物質に姿を変える。
そしてそのまま、数億年ものあいだ岩の中に閉じ込められる。体は消えても、細胞膜の化学的な痕跡だけが証言者として生き残るのだ。
分子の「枝ぶり」が種を語る
面白いのは、このステロイド分子の形が、生き物のグループごとにかなり違うことだ。中心の骨格から伸びる枝の位置や数が、種によって特徴的なパターンを描く。
うまくいけば、この枝ぶりから「誰が作った分子か」を絞り込める。
キク骨が残らなくても、細胞膜の分子が岩に残れば、昔の生き物の手がかりになるんだ。
カイメンとは、どんな動物なのか


動くのをやめた、生きたフィルター
そもそもカイメンとは何者か。動物界のなかでも、かなり変わり者だ。脳も神経も筋肉もなく、一生のほとんどを岩やサンゴに固着して過ごす。
体の表面は無数の小さな穴でおおわれ、内側にある特殊な細胞が鞭毛を動かして水流を作り、海水を体内に吸い込む。
そこから漂う微小なプランクトンや有機物のかけらを漉し取って食べる、濾過摂食という生き方だ。
動きも器官も持たず、ただ静かに水を漉して暮らす。私たちが「動物らしい」と思う特徴の多くを持たないその姿こそ、動物のごく初期の形をとどめていると考えられている。
指紋の主は「普通海綿類」
カイメンにもいくつかのグループがある。今回の指紋の持ち主は、そのなかで最大勢力の普通海綿類(デモスポンジ)だ。
現生のカイメンの種の大半を占めるこのグループは、ガラス質の骨格を持つ仲間や石灰質の骨片を持つ仲間とは、生化学的にも別系統にあたる。
研究チームが目印にしたのは、この普通海綿類だけが作る特殊なステロイドだった。
長年にわたる脂質研究のデータベースをさらっても、多様な藻類や他のカイメンからは、この物質の前駆体が報告されていない。
つまり、これが岩から見つかれば、普通海綿類がそこにいた強力な証拠になる、というわけである。
証拠固めの難関——藻類という「もう一人の容疑者」


最初の指紋には弱点があった
この捜査には、長い前史がある。ラブ教授らは2009年、24-イソプロピルコレスタンという別のステロイドの化石を、最古の動物の証拠として『Nature』に報告した。
だがこの物質には弱点があった。一部の藻類も、ごく微量ながら似た物質を作ることがあったのだ。容疑者はカイメンだけではない、と反論の余地が残ってしまった。
さらに、億年単位の古い岩石は、後の時代の石油やバクテリアで汚染される危険も常につきまとう。「その分子は、本当にその時代の生き物のものか。後から染み込んだのではないか」。
こうした疑問に答えないかぎり、最古の動物という主張は揺らいでしまう。捜査は、より確かな決定打を必要としていた。
2018年、決定打の指紋が見つかった
そこで2018年、チームは新たな切り札を示した。26-メチルスチグマスタンというステロイドの化石だ。
当時調べられた藻類や他のカイメンからは、この物質のもとになるステロールが見つかっていなかった。24-イソプロピルコレスタンの弱点を、この新しい指紋で補おうとしたのである。
チームは、現生の普通海綿類の体から取ったステロールを、高圧の水素を使う穏やかな化学処理(接触水素化熱分解、HyPy)でステランに変え、岩の中と同じ分子ができるかを確かめた。
Rhabdastrella属とGeodia属のカイメンからは、26-メチルスチグマスタンがステラン全体の1〜9%という量で得られた。
汚染への反論も用意された。これらのステロイドは、岩の中で後から染み込みうる可溶性の部分だけでなく、岩と分かちがたく結びついた不溶性の有機物の中からも検出された。
後から染み込んだ物質が、分子レベルで岩に化学結合することはできない。だからこの指紋は、岩と「同時に」埋もれた本物だ——そういう論理である。



その新しい指紋が見つかった岩って、いつの時代のものなんだろう?
岩石が証言する、約6億5000万年前の海
では、その指紋はいつの岩石から見つかったのか。主な産地は、中東オマーン南部の塩の盆地にある約6億6000万年から6億3500万年前の地層だ。
オマーンの岩石では、2つの分子を含む炭素30個のステランが、ステラン全体の1〜4%、ときに5%を超える割合で含まれる。
同じ組み合わせは、シベリア東部とインドのエディアカラ紀〜カンブリア紀の石油からも見つかった。
この年代の重みは、比較するとよくわかる。多様な動物が硬い殻や骨格をまとって一気に化石記録に現れる「カンブリア爆発」は、約5億4100万年前の出来事だ。
カイメンの化学の指紋は、それよりさらに約1億年もさかのぼる。
動物というグループが、殻や骨格という「目に見える姿」を獲得するはるか前から、ひっそりと海に存在していたことを、この指紋は物語っている。
2度の全球凍結のあいだ
クライオジェニアンには、赤道付近まで氷におおわれたとされる「スノーボールアース(全球凍結)」が2度起きた。
論文によると、2つの分子がそろって最初に現れるのは、1度目のスターチアン氷河期(約6億6000万年前に終わる)の後で、2度目のマリノアン氷河期の終わりにできた地層(6億3500万年前)より前の岩だ。
つまり指紋は、2度の全球凍結のあいだの海に残されていた。



2回の全球凍結のあいだの海に、もう動物がいたかもしれないんだ。
まだ続く、「最初の動物」をめぐる論争


カイメンか、クシクラゲか
ただし、この物語に安易な結末をつけるのは控えたい。「カイメンが地球最古の動物だ」と言い切るには、まだ決着していない大きな論争があるからだ。
動物の進化の系統樹をたどり、いちばん根元で最初に分かれたグループは何か——長らく体制の単純なカイメンが最有力とされてきたが、近年、神経も筋肉も持つクシクラゲ(有櫛動物)こそ最初に分かれたとする説が強力に浮上した。
ゲノム解析や染色体の配置パターンをめぐって、カイメン説とクシクラゲ説は今も交互に論文が出ている。
化学の指紋そのものにも、強い反論が出た。
2019年、ドイツのマックス・プランク生物地球化学研究所などのチームが、単細胞の原生生物リザリア類の多くが、この2つの分子のもとになる物質を作ることを報告した。
これらをカイメンの目印とは認めず、最古の動物の証拠はカンブリア爆発にずっと近い時代になる、という主張だ。2020年にはラブ氏らが同じ誌上で反論し、リザリア側も再反論している。
決着しだいで変わる動物の始まり
系統樹の根元がカイメンかクシクラゲかとは別に、化学の指紋を誰のものと読むかで、動物の始まりの時期は1億年近く変わる。
ラブ氏らの読みが正しければ、動物はカンブリア爆発より約1億年早く海にいた。
リザリア説が正しければ、確かな証拠は約5億5800万年前のエディアカラ生物群(ディッキンソニアやキンベレラ)まで下がる。
脳も筋肉もない動物


動く・食べる・考えるは、必須ではなかった
水族館やダイビングで見かけるカイメンは、脳も心臓も持たないまま、固着して水を漉す生き方をしている動物だ。その祖先がどこまでさかのぼるかは、岩に残った分子の読み方にかかっている。
参考文献:
Demosponge steroid biomarker 26-methylstigmastane provides evidence for Neoproterozoic animals
Zumberge, Love et al., Nature Ecology & Evolution 2, 1709–1714 (2018). DOI: 10.1038/s41559-018-0676-2
出典: University of California, Riverside / MIT / Caltech ほか









